「明日から、好きに過ごしていいんだよね?」
中村和彦さん(仮名・65歳)は、地元の製造業で40年以上働き、60歳で定年を迎えました。退職金もある程度は受け取り、公的年金は夫婦合算で月18万円。ローン返済も終わっており、「これでようやく、のんびり過ごせる」と肩の荷を下ろしたといいます。
「会社の同僚に花束をもらって、帰宅途中にコンビニで好きな酒とつまみを買ったんです。やっと自由になれた、そう思っていました」
しかし——翌朝。コーヒーを飲んで新聞を広げようとした瞬間、キッチンに立つ妻から“まさかの一言”が飛んできました。
「今日から朝食後は、食器洗いとゴミ出し、よろしくね」
その日から、和彦さんの「自由な生活」は一変しました。掃除機をかけ、買い物リストを握りしめてスーパーに向かい、夜は妻の帰宅前に洗濯物を取り込む——。
「最初は『手伝い程度』だと思っていたのが、気づけば“主夫”のような毎日でした」
家事に慣れていなかった和彦さんは、洗濯物を色落ちさせたり、味噌汁を焦がしたりと失敗も多く、妻にたしなめられる日々が続きました。次第に、口数も減り、家の中に気まずい空気が流れるようになったといいます。
ある日、“我慢の限界”を迎えた和彦さんは、ついに妻に尋ねました。
「俺、なんでこんなに“主夫”みたいなことをしているんだ?」
すると妻は静かに答えました。
「私が40年間、毎日やってきたことよ。あなたも毎日家にいるんだから、やってくれて当然でしょ」
その言葉を聞き、和彦さんはようやく気づいたといいます。「自由」とは、“自分勝手”とは違うということ。そして、妻にとっての「日常」を、初めて実感したのです。
