日本経済のターニングポイントは「1985年8月~9月」か
太平洋戦争の敗戦で焼け野原と化した日本は、GHQの支配下に置かれ、主権を失った。すべての政策はGHQ(実質的にアメリカ)の判断を仰がないと決められない「占領下」に置かれたのだ。
しかし、日本人のたゆまぬ努力の積み重ねによって、奇跡と呼ばれた高度経済成長を通じて、日本は世界でのプレゼンスを高めていた。ジャパンマネーが世界中の資産を買いあさり、1980年代後半には、東京の山手線の内側の土地だけでアメリカ全土が買えると言われた。日本経済は世界一の地位にまでのぼり詰めたのだ。
外交面でも1951年9月8日に連合国諸国と日本との間でサンフランシスコ平和条約が締結され、日本は占領状態から脱却し、形式的に主権が認められるようになった。主権というのは、自分の国の政策を自分で決められる権利のことだ。
そして、1975年11月にフランスのランブイエで開催された第1回主要国首脳会議(通称ランブイエ・サミット)で、日本はアメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、イタリアとともにG6の一員として参加することになった。
日本は、世界のトップ6の仲間入りをしたのだ。私も含めて、誰もが日本は完全に主権を取り戻した、少なくとももうすぐそうなると考えていた。
ところが、1985年8月の日本航空123便の墜落事件の後、時計が突然逆回転を始めた。戦後40年かけて築き上げた日本の主権が音を立てて崩れ落ちていくことになる。
日航123便の墜落からわずか41日後の1985年9月22日、先進5カ国の大蔵大臣、中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルに集結した。
この場で「プラザ合意」と呼ばれる日本経済にとって致命的な決定がなされた。表面上は、為替を安定させるという合意だったが、実態は、各国の協調介入によって、急激な円高をもたらすものだった。