バブルはこうして発生した
プラザ合意による超円高が訪れた後、日本経済は深刻な景気後退に突入した。政府と日銀は景気悪化を食い止めるため、大きな財政出動と大胆な金融緩和を重ねる大規模経済対策に打って出た。
まず財政政策を見ると、公共事業費(実質公的固定資本形成)の伸びは、1986年が3.9%、1987年が5.1%、1988年が5.5%、1989年は▲0.4%となっている。高いといえば高いのだが、とてつもなく大きいというわけではない。
一方、日銀は、それまで5.0%だった公定歩合を1986年1月に4.5%に引き下げた。その後、同年3月に4.0%、同年4月に3.5%、同年11月に3.0%と急激な引き下げを行ない、1987年2月に2.5%の最低水準まで引き下げた。急激な金融緩和によって、円高不況に対抗しようとしたのだ。
そのなかで、日経平均株価は1985年末に1万3,113円だったのが、1986年末に1万8,701円、1987年末に2万1,564円、1988年末に3万159円、1989年末に3万8,915円と、株価は4年間で約3倍に値上がりした。
不動産価格も急騰した。全用途平均の市街地価格指数(2010年3月末=100)は、1985年に159.4だったのが、1990年には46%高の233.3となり、翌1991年には257.5と最高値となった。
世間では、財政出動と日銀の金融緩和がバブルをもたらしたと言われていて、私もそうだと思っていたのだが、財政出動の規模はたいしたものではないし、公定歩合も2.5%まで下げただけだ。それでバブルになってしまうなら、近年のゼロ金利政策はもっと大きなバブルを引き起こしているはずだ。
私はバブルを引き起こした最大の原因は日銀の「窓口指導」だったと考えている。日銀は、それぞれの銀行ごとに貸出の伸び率の上限を指示する「窓口指導」をずっと行なってきた。バブル期には、表向き1980年代後半には廃止されたことになっていたが、それが存続していたことを私は知っていた。
というのも、私が勤めていたシンクタンクが銀行の子会社で、私が入社したころは、研究員の多くが銀行からの出向者だったからだ。そして、バブル期の窓口指導がとてつもない圧力を銀行に与えていたことが最近になって次々と明らかになってきた。
たとえば、『最後の頭取─北海道拓殖銀行破綻20年後の真実』(河谷禎昌著、ダイヤモンド社、2019年)で、「バブル期には、日銀の窓口指導で各行に前期比3割増といった大きな貸出枠が与えられた」と河谷元頭取は証言している。
貸出枠の伸び率は銀行によって大きく異なる。統計があるわけではないが、私が聞いた話では、少なくとも1割増程度の枠は各行に与えられていたようだ。
銀行は、日銀から与えられた貸出枠は必ず消化しなければならない。そうしないと翌年の貸出枠を減らされてしまうからだ。役所が獲得した予算を必ず消化しようとするのと同じ行動原理だ。
ところが、世の中は円高不況の嵐が吹き荒れていて、新たな資金需要はほとんどない。本来、銀行は不動産や株式の投機にカネを貸すことを許されていないのだが、そんなことは貸出の稟議書を書くときにうまく誤魔化せばよい。結果的に、銀行は投機に手を貸す形で、融資を拡大させていった。そのことがバブル発生の最大の要因になったのだ。
しかもこの投機資金への融資はしばらくはうまくいった。株価や地価が急騰したことで、十分なリターンを獲得したからだ。
しかし、バブルは必ず弾ける。暴落は1990年の年初から始まった。