太平洋戦争が始まったワケ
突如、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻し、独ソ戦争が始まりました(1941.6)。
日本は南進策に加えて北進策も進めることを決定し、独ソ戦争がドイツ優位の場合のソ連侵攻(日ソ中立条約破棄)を想定し、満州国とソ連の国境付近に大軍を集結させ、関東軍特種演習(関特演)を実施しました(1941.7)。
しかし、ソ連へは侵攻せず、演習は途中で中止されました。
アメリカとの対立を決定的にした原因
対米強硬論の松岡洋右外相を外して〔第3次近衛内閣〕が成立したものの、南進策を維持して南部仏印進駐(1941.7)を実行すると、直後にアメリカは日本の在米資産を凍結し、石油の対日輸出を禁止しました。
日中戦争の継続は困難となり(こうした対日経済封鎖を軍部は「ABCD包囲陣」[米・英・中・蘭]と呼んで国民にその脅威を訴えた)、9月の御前会議(天皇・政府・軍部)では「帝国国策遂行要領」を決定し、10月を期限として日米交渉を継続しつつ対米戦争準備を行うことにしましたが、結局交渉は不調のままでした。
太平洋戦争の始まり
陸相の東条英機が首相となって〔東条英機内閣〕が成立しました(陸相・内相も兼任)。
しかし、日米交渉のなかで11月末にアメリカが提示したハル=ノートは、「中国・仏印からの全面撤退、三国同盟の破棄、満州国・汪兆銘政権の否認」といった、満州事変以前の状態に戻すことを要求する、日本にとって厳しい内容でした。
御前会議で開戦が決定され、陸軍のイギリス領マレー半島上陸と海軍のハワイ真珠湾攻撃によって(1941.12)、太平洋戦争(1941~45)が始まりました。
日本は「欧米の植民地支配からアジアを解放し、大東亜共栄圏を建設する」ことを掲げてアジア・太平洋各地を占領しましたが、現地で資源や物資を収奪し(石油・金属・米など)、軍政を行ってアジア諸民族を抑圧するのが、占領政策の実態でした。
太平洋戦争の戦局の変化
ミッドウェー海戦(1942)の敗北から、アメリカ軍の反転攻勢が始まり、ガダルカナル島から撤退すると、日本は太平洋地域から後退していきました。
日本は、汪兆銘政権や満州国、さらに占領地の代表者を東京に集めて大東亜会議(1943)を開き、「大東亜共栄圏」の結束を誇示しました。
しかし、アメリカ軍のサイパン島占領(1944)を機に、〔東条内閣〕は総辞職しました。サイパン島には米軍基地が作られ、爆撃機による本土空襲が激化しました。
戦時下の国民生活
開戦直後、〔東条内閣〕は翼賛選挙(1942)を実施しました。政府が援助した推薦候補が8割以上の議席を占め、非推薦候補は僅かでした。議員の多くが翼賛政治会に参加し、議会は政府の決定を承認するだけの機関になりました。
国民生活について
生活は苦しく、配給もコメ以外の小麦粉やイモなどの代用品になったり、配給では足りずに高価な闇取引に頼ったりしました。戦場への召集や工場への動員が強化されたことで、農村の労働力が不足し、食糧不足が生じたのです。
こうしたなか、政府は食糧管理法(1942)を定めて、生産・流通・配給を統制しました。
また、兵力・労働力の不足を補うため、中学以上の学生・生徒や女子挺身隊に組織された未婚女性を軍需工場に動員し(勤労動員)、徴兵の年齢に達した文科系学生(大学・高等学校など)を在学中に召集して戦場に送りました(学徒出陣)。
本土空襲が激しくなると、国民学校の児童が地方へ集団で疎開する学童疎開が実施され、工場は都市から地方へ移転していきました。
すでに、植民地の朝鮮・台湾では皇民化政策によって、日本語教育の徹底や神社参拝の強制が進められ、朝鮮では日本風の姓名を名乗る創氏改名も強制されました。
太平洋戦争の開始後、朝鮮や台湾では徴兵制が施行され、朝鮮人や占領地域の中国人を日本本土の鉱山や港湾などで働かせました(強制連行)。
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