第一次世界大戦の勃発
19世紀末以降、列強は帝国主義(巨大資本が国家権力と結合し、軍事力による植民地・権益の獲得を国家間で競う)を展開し、世界進出を強めたドイツと「大英帝国」イギリスとの対抗を軸に、ドイツ・オーストリア(墺)・イタリアの三国同盟と、イギリス・ロシア・フランスの三国協商が対立しました。
こうしたなか、オーストリアがバルカン半島へ拡張すると、親露国のセルビアに危機感が広まり、オーストリア領となったサライェヴォで、セルビア人の民族主義者がオーストリア帝位継承者を殺害しました(サライェヴォ事件)。
これが契機となって、同盟国(三国同盟、イタリアは連合国へ)と連合国(三国協商)との間で第一次世界大戦(1914~18)が勃発し、一国の政治・経済を戦争に振り向け、全国民を様々な形で動員する総力戦が展開されました。
日本はなぜ第一次世界大戦に参戦したのか?
〔第2次大隈内閣〕の加藤高明外相は「日英同盟を口実に参戦し、東アジアのドイツ権益を奪取して日本の国際的地位を高める」という野心的な考えを主張して日本の参戦を主導し、日本は山東半島の青島を占領して山東省のドイツ権益を接収し、赤道以北のドイツ領南洋諸島(中部太平洋)も占領しました。
当時の中国では、辛亥革命(1911~12)で中華民国が成立して清が滅亡したのち、軍閥の袁世凱が北京政府の中心となりました(革命を主導した孫文は日本に亡命)。
加藤高明外相は袁世凱政権へ二十一カ条の要求(1915)を突きつけ、山東省のドイツ権益の継承や、旅順・大連の租借期限と南満州鉄道の経営期限の99年間延長(日露戦争で獲得した南満州権益の強化)などを承認させました。
しかし、中国国民の反発が高まると、〔寺内内閣〕は軍事進出を改め、軍閥の段祺瑞政権に西原借款を与えて権益確保を図りました。
アメリカが連合国側で参戦すると、〔寺内内閣〕は石井・ランシング協定(1917)を結び(アメリカは日本の中国での特殊利益を認め、中国の門戸開放・機会均等[アメリカの対中国方針]を確認)、日米関係を調整しました。労働者・兵士によるロシア革命(1917)で帝政ロシアが崩壊しソヴィエト政権が誕生したことは、世界を揺るがせました。
社会主義国家の出現に対し、連合国が武力干渉を決定すると、日本は日露協約消滅後の満州権益維持も図り、この戦争に参加しました(シベリア出兵 1918~22)。しかし、日本は連合国の撤退後も出兵を継続し、領土的野心を疑われました。
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