民衆運動の高まりにより、本格的政党内閣が誕生
山県系(陸軍・長州閥)である超然内閣の〔寺内正毅内閣〕も、次第に政友会・国民党と協力し、また中国権益確保につとめました(石井・ランシング協定など)。
しかし、大戦景気下での都市化で米消費が増えて米価が上昇し、加えてシベリア出兵(ロシア革命で誕生した社会主義政権への干渉戦争)による軍用米需要を見越した買占めが重なり、米価が暴騰しました。
そして、富山県で始まった安売り要求運動が、新聞報道もあり全国に波及して米騒動(1918)に発展すると、軍隊も出動させた鎮圧に批判が高まり、総辞職しました。
積極政策を実行した「平民宰相」原敬内閣
民衆運動の高揚を前に、元老山県有朋らも政党内閣を認め、立憲政友会が与党の「本格的」(首相が衆議院に議席を持つ)政党内閣である〔原敬内閣〕が成立し、原は「平民宰相」と呼ばれました。
原は政友会の公約である積極政策を実行し、大学令で帝国大学以外の大学(私立・公立)を認可し、官鉄拡張や海軍軍拡の計画で農村や軍部の支持を得ました。
しかし、普通選挙の導入は拒否し、選挙法改正で納税資格を直接国税3円以上へ引き下げ、小選挙区制を導入しました。納税資格の急速な撤廃は、格差解消をめざす社会主義的な考えにつながり、社会秩序の維持には不適当だと原は考えたのです。
また、第一次世界大戦終結(1918)でパリ講和会議に参加する一方、戦後恐慌で積極政策が行きづまりました。原の暗殺後、立憲政友会による政党内閣の〔高橋是清内閣〕はワシントン会議に参加し、協調外交の基礎を築きました。
第二次護憲運動はどのように展開したのか?
海軍の〔加藤友三郎内閣〕の後、関東大震災(1923)の直後に成立した〔第2次山本権兵衛内閣〕は戒厳令を発し(市民による朝鮮人・中国人殺傷事件や、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝が憲兵の甘粕正彦に殺される事件が発生)、震災恐慌が広まるなかで復興に尽力しました。しかし、無政府主義者(無政府主義は社会主義の一種で、権力を否定して小規模コミュニティを重視)が摂政裕仁親王(のちの昭和天皇)を狙撃した虎の門事件を機に、総辞職しました。
〔清浦奎吾内閣〕成立の背景には、政党と距離を置く清浦に総選挙を行わせ、民意で政党政治を復活させるという元老西園寺公望の判断がありましたが、貴族院が基盤の超然内閣だったため、憲政会(もと立憲同志会)・立憲政友会・革新俱楽部(もと立憲国民党)の護憲三派は政権奪還をめざして第二次護憲運動(1924)を開始し、「普選断行」などを選挙公約としました。
これに対し、現内閣での政権担当を望む勢力が立憲政友会から脱党し、政友本党を結成して与党化しました。結局、解散・総選挙で護憲三派が圧勝し、総辞職しました。
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