実家と里親の家を行ったり来たり…“厄介者扱い”された幼少期
<略歴>1867年~1916年。東京生まれ。帝国大学卒業後、中学校・高等学校の英語教師を経て、ロンドンに留学。帰国後は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などの小説を発表。文壇に名を馳せると、教職を辞して朝日新聞社に入社。『三四郎』『それから』『門』『こころ』『道草』『明暗』など数々の名作を執筆した。
日本を代表する文豪といってもよいだろう。『吾輩は猫である』『こころ』『三四郎』……。夏目漱石による名作の数々は、時代を超えて読み継がれている。
しかし、漱石は若い頃から才能が認められて、前途洋々の青春時代を過ごしたわけではない。小説家デビューしたのは38歳と、後世に残した実績を考えれば意外と遅かった。その紆余曲折ぶりを知ると、漱石もまた「逃げの姿勢」があったからこそ、道が開けたといえそうだ。
赤ん坊の漱石は小さなザルに入れられ、古道具と一緒に夜店へ…
漱石は、江戸の牛込馬場下、現在の東京都新宿区に、名主の夏目小兵衛直克[なつめこへえなおかつ]の5男として生まれた。時は1867年と、ちょうど慶応から明治の元号に移り変わる頃。まさに激動の時代である。
名主だった父も大きく状況が変わったのだろう。貧しさからか、漱石は生まれてすぐに古道具屋の夫婦のところへ、里子に出されている。その夫婦は、赤ん坊の漱石を小さなザルに入れ、古道具と一緒に夜店の大通りに晒した。何という赤ちゃんの扱い方……。発見した姉が、あまりに不憫なので実家に連れ戻したとされている。
姉に助けられて、人生初の「逃亡」に成功した漱石だったが、3歳のとき、今度は父と同じく名主をしている塩原昌之助のところへ養子に出された。以後、漱石は実家と塩原家の間で行き来している。要は、どちらからも厄介者扱いされたのである。
ある日、漱石が養家を訪れたときには、こんなふうに言われた。
「もうこっちへ引き取って、給仕でも何でもさせるからそう思うがいい」
漱石はこのときすでに、「なんでも長い間の修業をして、立派な人間になって、世間に出なければならない」という思いを強くしていた。給仕になんてさせられてはたまらないと、実家に逃げ帰っている。大人の都合に振り回された漱石だった。
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