名作を数多く残した芥川が家族に晒した「情けない姿」
<略歴>1892年~1927年。東京生まれ。東京帝国大学に進学し、創作活動をはじめる。『鼻』が夏目漱石の激賞を受けた。『芋粥』『地獄変』『藪の中』『歯車』など古典から題材をとった作品を多く残した。また『蜘蛛の糸』『杜子春』などの童話も発表し、大正文壇の寵児となる。死後に芥川賞が設けられた。
文豪は威厳あふれるその姿で、何か深遠な思いにふけっていると見せかけて、意外としょうもないことや情けないことを考えていることがある。
たとえば、夏目漱石は執筆中におなかが空くと、お菓子のことで頭がいっぱいになったらしい。漱石の病弱な胃を心配して妻がお菓子を隠すも、小さい子どもから情報を聞き出しては、戸棚をごそごそ。執念でお菓子を見つけ出す漱石の姿を、親族が何度も目撃している。
また、森鷗外は文豪でありながら、陸軍の軍医としても活躍。いかにも頼りがいがある風体をしながらも、泳ぎだけは苦手だった。あるときに船で子どもから「もし船がひっくりかえったらどうなるの?」と聞かれると、鷗外はこう即答した。「水の中では俺は駄目だよ。パパは泳げないからな」あまりに正直な回答に、子どもが落胆したことはいうまでもない。
しかし、情けない姿を家族に晒したという点において、芥川龍之介の右に出る者はいないだろう。
それは、1923年9月1日、関東大震災が起きたときのことである。そのとき、芥川家はちょうど昼食をとっていた。
家には芥川龍之介と妻の文、そして芥川の父のほかに、ふたりの子どもがいた。3歳で長男の比呂志と、まだ赤ん坊の次男・多加志である。
「お昼のおかずに、ずいきと枝豆の三杯酢があったことを妙に覚えています」
妻の文は当時をそう振り返っているが、もうひとつ、覚えていることがあった。それは、夫の芥川がすでに食事を終えていたことである。
いつもはお昼になると、子どもが2階に向かって階段の下で「とうちゃん、まんま」と叫び、書斎にいる芥川を呼ぶのが習慣だった。ところが、このときばかりは、誰に言われずとも1階に降りて、食事をさっさと済ませて、お茶を飲んでいたという。芥川がいつもと違う行動をとったのは、何か動物的な勘が働いたからかもしれない。
そのとき、ぐらりと地震が起きたのである。芥川はすぐに叫んだ。「地震だ、早く外へ出るように!」
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