賭博に愛人、借金まみれの生涯を送ったドストエフスキー
<略歴>1821年~1881年。ロシア帝国のモスクワ生まれ。24歳のときに処女作『貧しき人々』が絶賛され、華々しく作家デビューを果たす。1849年、政治犯として逮捕されてシベリアで服役。出獄後に『死の家の記録』等で復帰。『罪と罰』『白痴(はくち)』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』など名作を残した。
壁のくぼみに身を隠した学生時代
ドストエフスキーは、陸軍中央工兵学校に入学するが、何かと浮いた存在だった。
クラスメイトたちが、舞踏会や祭典の話題で盛り上がっていても、なにがそんなに楽しいのか、まったく理解できない。将来の夢の話になっても、社交界や華やかな生活に憧れるばかりの級友たちを、冷めた目で見ていたようだ。当時をこう振り返っている。
「あの連中の物の考え方の浅薄さ、その勉強ぶり、遊戯、会話の愚かしさに驚かされたものである。すでにその頃から人生の成功だけに頭をさげるように飼い慣らされてしまっていた」
罵倒が止まらないドストエフスキーだったが、たかだか16歳にもかかわらず、高収入が得られる地位につくことしか関心がない、クラスメイトたちの底の浅さに心底あきれたらしい。「彼らは醜悪なほど堕落しきっていた」とまで言っている。
そんな調子だから友達ができるはずもなく、憂鬱でふさぎ込むようになったドストエフスキー。教師もクラスメイトも避けながら、本をかかえて廊下をうろつくばかりだった。一方で、孤立したドストエフスキーのことを、気にかけた同級生もいた。こんな証言をしている。
「寂しがっていただろうか、それとも勝手にそう思っていただろうか、ぼくらにはよくわからなかった。極端なまでの自負心、こまやかな情感、肉体的虚弱、そういったものが彼を閉鎖的な人間にしていた」
休み時間になると喧騒から逃れるように、ドストエフスキーは運河に面した、窓辺の壁のくぼみに静かに身を隠していた。「放っておいてほしい」オーラ全開である。
そうして同級生との交流を避ける日々だったが、やがてその孤高の姿に興味を持つクラスメイトが現れはじめる。ドストエフスキーは5人程度のグループのリーダーとして、詩や理想について語り合ったり、読むべき小説について指導したりするようになった。
もう独りぼっちではなくなったけれども、気難しい性格は相変わらずだ。自分の作品解説に対して、仲間から反論が出ると、ドストエフスキーは激しく相手を攻撃した。
たまらず相手が逃げ出すと、ドストエフスキーは説得するために、本を持って追いかけていったという。逃げたり追いかけたり、忙しいドストエフスキーだった。
ギャンブルに逃避して借金まみれ
学校卒業後はペテルブルクの工兵隊製図局に勤務するも、1年足らずで退職。兄には「勤務には、ジャガイモみたいに飽き飽きしました」という独特の言い回しで報告している。ドストエフスキーは手紙でこう続けた。
「さて、さしあたり何をするか、それが問題です。8,000ルーブルの借金がありますからね」
なんだか呑気だが、8,000ルーブルは、現在の紙幣価値では、実に800万円以上。仕事を辞めたばかりで、なぜそんなに借金があるのか。しかも、ドストエフスキーは勤め先の給料以外に、父親の残した領地からも収入を得ており、経済的にはかなり恵まれていた。
ドストエフスキーに宛てられた兄からの手紙を読めば、借金のワケは一目瞭然である。
「お願いだ、もう賭博はやめてくれ。どうしてわたしたちの幸福をもてあそばねばならんのだ? 生命をかけてやらなければ、幸運は開けないものだ」
そう、ドストエフスキーはギャンブル狂だった。若い頃から仕送りのほとんどを賭けビリヤードとドミノにつぎ込んだ。
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