欧米人と自分を比べて自己嫌悪…“悲惨”なロンドン留学
逃げ帰った実家から小学校に通った漱石は読書好きで、12歳のときには回覧雑誌に楠木正成を題材にした短編『正成論』を書いている。次第に「自分も文学をやってみよう」という思いを強くしていく。西洋の小説を読むようになり、大学では英文科に進学。英文学を学んだうえで、英語で文学作品を発表して、世界を驚かせようと考えたのである。
しかし、英文学に関する資料は当時まだ少なく、漱石は苦戦する。結局、英文学が何たるかがわからぬまま卒業を迎えてしまう。それでも就職はしなければと、高等師範学校の英語教師になるも、どうにも教師には向いていない気がしてならない。
「教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました」
またこの頃から体調を崩し、肺結核の初期と診断される。やがて全快するが、大学同窓の正岡子規に宛てて「風流を楽しむような余裕などは全然ない」と書いているように、気分は塞ぎがちだった。
東京から逃げるように学校を辞職すると、松山や熊本に英語教師として赴任。その後、文部省より命じられたロンドン留学で、漱石はいよいよ鬱積を抑えられなくなった。
“ロンドンで暮らした2年間はもっとも不愉快な2年間であった”
なにしろ「ロンドン留学」という華やかな響きとは裏腹に、その生活は悲惨そのもの。政府から支給された額では、ろくな下宿先にも住めず、食費も切り詰める必要があった。
また、欧米人にまぎれているうちに、窓に映る自分の姿が醜く見えてきたようだ。
「往来の向こうから、背が低く妙にきたない奴が来たと思ったら自分だった」
周囲のイギリス人みんなからバカにされているのではないか――という被害妄想に陥った漱石。留学した当初こそよく街へ繰り出していたが、大学を休んで部屋に引きこもるようになった。
留学生仲間とも会わなくなり、真っ暗な室内で泣いている姿を下宿先の大家に目撃されている。すべてから逃避せずにはいられなかったのだろう。
そんなとき、文部省に送る報告書を白紙で提出したことから、日本では「漱石は発狂した」とまで噂されて、帰国を促されている。
実際のところは、『文学論』につながる壮大なテーマに取り組んでおり、研究のメドがまだついていなかった。それにもかかわらず、報告書を求める文部省に漱石が反発。白紙で送ったところ、思わぬ騒ぎになったようだ。
「ロンドンで暮らした2年間はもっとも不愉快な2年間であった」
漱石はロンドン留学時代をこう振り返ったが、帰国しても鬱屈が消えることはない。
東京帝国大学で職を得た漱石に、親戚から経済的な援助を求められるのも、ストレスの種となる。人間不信はひどくなるばかりで、家族にもきつくあたるようになった。
もはやどこにも逃げ場がないかのように思えた漱石。だが、友人の高浜虚子が「気晴らしに小説でも書いてはどうか」と誘ったことで、人生が一転する。
筆をとった漱石によって書かれたデビュー作こそが『吾輩は猫である』だった。つらい現実から物語の世界に逃げ込むことで、漱石は38歳にして天職を得たのである。
真山 知幸
著述家、偉人研究家
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