“喧嘩が始まったとみると逃げ出して”…逃げ足の速かった太宰
<略歴>1909年~1948年。青森県生まれ。大地主の息子として裕福な青少年時代を過ごす。東京帝国大学仏文科に入学し、井伏鱒二に師事。『逆行』で芥川賞候補となり、『富嶽百景』『斜陽』などで流行作家となる。39年の生涯で5回の自殺未遂を繰り返し、玉川上水に入水して死亡。他の代表作に『人間失格』など。
「若いとき喧嘩が始まったとみると逃げ出して、その逃げ足の速さに、『隼の銀』といわれたものだ」
妻にそう話したのは、太宰治である。なぜか妙に自慢げだが、確かに逃げ足は速かったようだ。文学青年に絡まれたときのことも、こう振り返っている。
「月代[さかやき]を剃りあげたみたいに頭の中央のところがてらてらしていて、なにかというと、ぼくにからんでくるんだ。その癖、文学なんてなにもわかっていないのだ。ぼくは、よっぽど、その頭をぶん殴ってやろうかと思ったが、それもできないので逃げだしましたよ」
中原中也が家まで追いかけてきたが“蒲団を頭からかぶって”逃げ切る
詩人の中原中也に酔っぱらってからまれたときも、そうだった。初対面こそ、散々に酔ったあげく口論になって中也と大乱闘になったが、それに懲りたのか、2回目のときは、中也が酔うやいなや、早々と退散。
逃がすものかと中也は家まで追いかけて来たが(それもすごいな)、蒲団を頭からかぶってやりすごした。太宰にとっては、逃げの一手が、困難を切り抜ける戦法だったのだ。
師匠の井伏鱒二も置き去りに、一目散に逃げた
逃げ足が速かった太宰は、あろうことか、師匠の井伏鱒二すらも置いて逃げたことがあった。大衆酒場で井伏とふたりで飲んでいるときのこと。角刈りの男が太宰に話しかけてきたが、酔っ払っていたため、やがて不穏な雰囲気に……。
激昂した男は「ここで待ってろ!」と店を出て行くが、もちろん、太宰はすぐさま店を出ようとする。しかし、井伏は「これだけは飲んでいこう」とのんびりしている。あきれた太宰は井伏の袖を引っ張り、勘定をすばやく済ませて店の外へ。
すると、まもなくして男が追いかけてきた。「井伏さん、駆け出そう!」太宰がそう呼びかけても、井伏はなんだかゆっくり歩いている。たまらず、太宰は師を置き去りにして、一目散に逃げ出したという。
結局、男は歩いている井伏のことはただの通行人だと思ったらしく、横を通り過ぎて、太宰だけを追い続けたというから、まるでコントだ。
必死に逃げた太宰は、暗い横路地の陰に逃げ込んで事なきを得ている。走り損の太宰だった。
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