一枚岩ではなかった…“征韓”、北海道帰属をめぐる明治政府
(2)朝鮮に対し、日本はどのような姿勢で臨んだのか?
朝鮮外交を担った対馬藩が消滅したのち、日本の国交要求を朝鮮が拒否すると、軍事力を用いてでも朝鮮を開国させる征韓論が政府内で唱えられました。
しかし、帰国した岩倉使節団メンバーが「内治優先」を唱えて反対し、征韓が中止されると、敗れた征韓派の西郷隆盛(薩摩)・板垣退助(土佐)・後藤象二郎(土佐)・江藤新平(肥前)は辞職しました(1873明治六年の政変)。
ところが、その後の日本は朝鮮へ軍艦を派遣して挑発行為を行い、朝鮮からの反撃を口実に江華島を占領して開国を迫り(1875江華島事件)、朝鮮と日朝修好条規(1876)を結びました。朝鮮は「自主ノ邦(くに)」「日本国ト平等ノ権ヲ保有」と規定され、建前では独立・対等な近代国家同士の条約を日朝間で結ぶことで、清の宗主権を朝鮮に否定させたのです。
一方、領事裁判権を朝鮮に承認させ、関税免除の特権も得るなど、実際は日本に有利な不平等条約だったので、その後の日本は朝鮮への政治的・経済的進出を強めていきました。
(3)政府は、北海道をどのように統治したのか?
政府は、蝦夷地を北海道と改称して開拓使を設置し、アメリカ式の大農場経営方式を採用し、開拓と対ロシア防衛のため屯田兵制度も設けました(士族授産の一環)。さらに、札幌農学校を設立し、アメリカからクラーク(“Boys,be ambitious!”)を招きました。
しかし、政府がアイヌの「日本人への同化」を基調に日本語教育や農業奨励を推進したことで、伝統的な文化や生活が失われていき、その傾向は北海道旧土人保護法が制定されて拍車がかかりました。
国境の画定~北方と南方とで、どのように国境が画定したのか?
北方では、日露間で樺太・千島交換条約(1875)が結ばれ、国境を定めていなかった樺太がロシアに譲られる代わりに、ロシア領だった得撫島から先の千島列島を全て日本領としました。
南方では、小笠原諸島の領有を各国に通告して内務省が管轄し、のち東京府に編入されました。
山中 裕典
河合塾/東進ハイスクール・東進衛星予備校
講師
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