明治初期の外交(1870年代)
対欧米関係~不平等条約の改正は、どのように始まったのか?
明治政府は、不平等条約の改正による欧米と対等な地位の獲得をめざしました。廃藩置県で国内統一を達成した直後、公家出身の右大臣岩倉具視を大使、木戸孝允(長州)・大久保利通(薩摩)・伊藤博文(長州)らを副使とし、総勢100名を超える岩倉使節団(1871~73)を派遣しました。
しかし、アメリカとの交渉は手続きの不備もあって失敗し、情勢視察による日本の国家像の模索に目標を変更して、使節団はヨーロッパへ巡回しました。
使節団には、アメリカに留学した津田梅子(のち女子英学塾を開く)や、フランスに留学した中江兆民(ルソーの思想を紹介し自由民権運動に影響を与える)も同行しました。
対東アジア関係
当時の清はアヘン戦争以来の列強進出に対抗するため、朝貢国への宗主権を主張してこれを属国扱いし、介入を強めつつありました。
日本は、この動きに近代の論理で臨み、「近代国家の三要素」の一つである領域(主権が及ぶ範囲)の画定を進めました。
(1)琉球帰属問題をめぐって、清とはどのような関係にあったのか?
日本は清国との間で対等な日清修好条規(1871)を結びましたが、日中両属であった琉球の帰属が問題化しました。
日本は琉球を領域に組み入れる方針を固めるとともに、当時台湾で発生した琉球漂流民殺害事件を利用し、「琉球民=日本国民」とみなして殺害の責任を清国に負わせようとしました。そして、琉球藩(1872)を設置して琉球を直轄化し、琉球国王尚泰(しょうたい)を藩王としましたが、清国は琉球への宗主権を主張して日本へ抗議し、これを認めませんでした。
その後、琉球漂流民殺害事件に対する報復として、近代日本初の海外出兵となる台湾出兵(1874)を断行しました(木戸孝允は出兵に反対して政府を辞職)。イギリスの調停もあり、清国はこの出兵を正当な行動と認め、事実上の賠償金を日本へ支払いました。
「琉球民=日本国民」を清が承認したと見なした日本は、琉球藩廃止と沖縄県設置を強行しました(1879琉球処分)。政府は沖縄県の統治にあたって旧慣温存策をとり、沖縄の近代化は遅れました。
謝花昇(じゃはなのぼる)による参政権獲得運動などが起きたものの、沖縄県での衆議院議員選挙の実施は、本土の1890年から遅れた1912年(大正元年)のことでした。