「そんな時間があるなら、なぜもっと患者を診ないのか」
二〇〇八年四月に校長に昇任し、右も左も分からぬままに一学期が終わろうとする七月初旬、それまで大きな病気をしたことのない娘が、突然ウイルス性の脳炎を患った。
学校の帰りに行方不明となり、神奈川県のJR大船駅で発見され、近くの病院に救急車で搬送された。病状は日に日に悪化し、女房と交代で集中治療室にいる娘の看病をするという生活がはじまった。
新任校長が、一学期の成績会議も終業式も不在という状態で夏休みを迎えてしまった。
学校に戻れたのは、娘の病状が安定した八月中旬であった。
副校長時代、病気で入院した校長に、「入院していてもできる学校経営は素晴らしいですね」と大口を叩いていたが、その言葉が我が身の現実となってしまった。
毎朝、病院から副校長に、「学校に変わりはありませんか? いつ戻れるか分かりませんが、よろしくお願いします」と携帯電話でお願いするばかりという「ふがいなさ」と「後ろめたさ」を感じつつも、何としても我が子を救いたいと、なりふり構わぬ親心のほうがはるかに勝っていた。
生徒の問題行動が多発する本校において、不思議とその期間だけは何事も起こらなかった。それについては、副校長や教員の方々、そして生徒に感謝しなければならない。
このときのことで、はからずも実感できたことがある。
一つは、校長の前に父親であること。そして、校長が不在でも学校は何事もなく回るということだ。
要するに、新米校長の「力み」や「気負い」が一気に抜けてしまうという出来事であった。このときの体験は、その後の校長としてのあり方に貴重な示唆を与えてくれることになった。
娘の運ばれた救急病院は、二四時間オープンを理念とする病院であった。その理念と体制を維持するために、若い医師がチームを編成して患者に対応していた。
病院での生活が長引くなか、次第に周囲が見えてくると、その環境が自分のいる学校の状況に重なるように感じはじめた。
見るからに経験が浅く、自信のなさそうな医師が悪化する娘の病状や治療法を説明する際、「マニュアルではこうなっています」と言っていたが、その言葉に不安よりも腹立たしささを感じていた。
また、人工呼吸器を装着するとき、「一度装着すると、ご家族が希望しても法的には外せません」と額面どおりに言われ、不安と怒りが増すばかりであった。
どのように説明されても娘の病状や治療法は変わらないだろう。しかし、説明の仕方によっては納得できない場合がある。
それは、ちょうど、生徒の問題行動で進路変更(転学や退学)を迫られた保護者の心情に重なるように感じられた。
さらに病状が悪化して痙攣が頻発するようになると、看護師を呼び出すためのブザーを押す回数が増え、その到着が少しでも遅いと、いら立ちを覚えるようになった。また、看護師が行う点滴の巧拙さも気になるようになった。
さらには、空き時間にパソコンに向かってデータ入力をしている看護師の姿を見て、「そんな時間があるなら、なぜもっと患者を診ないのか」という不信感に変わっていった。
これはまさに、教員の資質・能力の問題や、文書に追い回される多忙のなかで生徒と接する時間が奪われ、生徒や保護者のトラブルが頻発するという教育現場の「影」を彷彿させる光景であった。
徐々に変わっていった心境
しかし、長らく病院で寝泊まりするうちに、次々と運びこまれてくる重症患者に対して不眠不休で対応している医師や、頻繁にある患者からのコールに休む間もなく、しかも笑顔でこたえている看護師の姿を見て、これ以上、現場の人間に何を求めることができるのか……という思いに変わっていった。
このような私の変化が理由だろう。
日替わりで宿直する看護師さんとも、気心が知れるほどに安心感をもつようになった。また、若い医師が廊下や病室で行っているミーティングの様子を見て、頼もしく感じられるようにもなってきた。
医療現場における壮絶な格闘シーンを毎日のように見れば、最前線で身体を張っている医師や看護師をもっと信頼して、家族も一緒になって病気と向きあわなくてはいけない。
そんな連帯感、一体感が強くなったという経験であった。
いかに崇高な理念や厳格な規則があっても、すべてのことが、運用する人と人とのかかわりのなかで良くも悪くもなっていく。
それが現場における現実である。
学校現場の最前線で身体を張っている教職員を信頼し、保護者や地域など学校を取り巻くすべての人々の連帯感や一体感をいかに高めていけばいいのか―それこそが最高責任者の使命ではないだろうか。
このときの体験を通して、そんな思いを新たにした瞬間であった。