「あの先生は教員らしくない」がほめ言葉だった時代
「あの先生は教員らしくない」かつては、こう言われるのがほめ言葉だった。
教員面して偉そうなことを言わない。本音で話をしてくれる。そういう子ども心や親心をくすぐる教員のことを、このように表現していた。
教員は偉い。
本当にそうかどうかは別として、世間ではそういうことにしておいたほうが家庭での教育はうまくいく、そんな時代背景であったころのことである。
でも、今は違う。
「あの先生は教員らしくない」といった風評が立つと、教員として大丈夫なのかと、身分さえあやうくなってくる。建前と本音の使い分けが微妙という、難しい時代になってきたわけだ。
世の中全般がそうだから、教育界でも建前をひたすら通しておればとりあえずは無難である。そうなってしまうのも、仕方のないことかもしれない。
しかし、建前だけでは人は育たない。
なぜかと言えば、建前に触発されたり、感動したりする人はいないからだ。
いまだに某ヨットスクールが健在なのは、壊れた家庭環境で八方ふさがりになった親子にとっては、暴力行為は肯定できないにしても、いかなるバッシングを受けようが変わらないという校長の本音と信念に「救いの光」を見るからではないだろうか。
大人の自己保身よりも子どものことを優先する。あるべき教育の魂を垣間見るからであろう。
正直に心を打ち明ければ、私は大変な学校(いろいろな意味で)が大好きだ。
かつて、問題ばかり起こすやんちゃな生徒を集めて、柔道の全国大会や関東大会に出場したときの汗と涙と感動が蘇ってくる。部活を強くする楽しさが、今は学校をよくする楽しさに変わっただけのような気がする。
大変な学校であればあるほど、生徒と教員が本音でぶつかり、悔し涙やうれし涙を流せる「泣ける学校」となるからだ。