【その時どうした家康?】雪辱戦「姉川の戦い」で窮地の信長を救った家康の決断

【その時どうした家康?】雪辱戦「姉川の戦い」で窮地の信長を救った家康の決断
滋賀県長浜市、姉川古戦場跡。(※写真はイメージです/PIXTA)

1570年(元亀元年)、織田信長は自分を裏切り、朝倉義景に寝返った浅井長政を討つべく兵を挙げました。家康は、どんな思いで「姉川の戦い」に臨んだのでしょうか。作家の城島明彦氏が著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)で解説します。

いよいよ甲斐の武田信玄が動く?

■信玄、家康攻略に動く

 

「戦国時代」とはよくいったものだ。関東から中部にかけてだけでも、越後の上杉、信濃の武田、小田原の北条、尾張の信長ら、天下の覇権をわが手に握らんとする野望を持った戦国大名が、互いの領土を接して犇<ひし>めき合い、互いに牽制しながら好機の訪れるのを待ち構えていた。

 

だが、そうした戦国のパワーバランスを下手に崩しにかかれば戦争になり、その間に別の戦国大名に漁夫の利を占めさせたり、運が悪ければ滅ぼされるかもしれず、上洛して天下に号令を発するところまでたどり着くのは至難の業だった。誰が戦国の勢力地図を塗り替えるのか。

 

そのような状況下で、最も不気味がられたのは甲斐の武田信玄だった。

 

戦国地図に異変が生じる大きなきっかけの一つとして「カリスマ型の大名の死」を挙げることができるが、1571(元亀2)年にそれが起きた。6月に西で毛利元就、10月に東で北条氏康が相次いで没したのだ。享年は元就が75、氏康が57。家康30歳のときの出来事である。

 

毛利元就は3人の息子に「天下を取ろうとする野望を持つな」(天下を競望せず)と遺言し、北条氏康は家督を継ぐ氏政に「信玄との軍事同盟を復活させよ」と遺言した。2人に共通するのは、「分をわきえまろ。天下取りの野望は抱くな」ということだった。当時の家康には、まだそのような野望はなかった。

 

北条氏康は、その2年前の10月に信玄に煮え湯を飲まされていた。甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元は、3者間で1554(天文23)年に締結した「甲相駿三国同盟」(善得寺会盟)を結んでいたが、破綻。信玄の相模侵入を許し、城を包囲されたという苦い経験から、北条氏康は、遺言で「北条・武田同盟」を再び結ばせた。こういうと厳しく聞こえるが、その実態は「双方の娘・嫡男による政略結婚」である。

 

信玄が動いたのは、2人が死んだ翌年というタイミングである。動いた名目として、15代将軍足利義昭による「信長追討要請」という出兵の大義があった。

 

信玄は、1572(元亀3)年10月3日、3万の大軍を率いて甲府を出発し、遠州口へ乱入、家康を震撼させたのだった。3万の軍勢には、同盟を結んだ北条氏の援軍も含まれている。

 

隣国の“宿敵”上杉謙信の存在が、それまで信玄を動きづらくしていた障壁だったが、今は一向一揆で動けなくなっていた事情を考慮しただけでなく、念には念を入れた。越後に雪が降って進軍しづらくなる季節を待ってもいたのだ。

 

城島 明彦
作家

 

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※本連載は城島明彦氏の著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)より一部を抜粋し、再編集したものです。

家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

城島 明彦

ウェッジ

天下人となり成功者のイメージが強い徳川家康。 だが、その人生は絶体絶命のピンチの連続であり、波乱万丈に満ちていた。 家康の人生に訪れた大きな「決断」を読者が追体験しつつ、天下人にのぼりつめることができた秘訣から…

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