【その時どうした家康?】雪辱戦「姉川の戦い」で窮地の信長を救った家康の決断

【その時どうした家康?】雪辱戦「姉川の戦い」で窮地の信長を救った家康の決断
滋賀県長浜市、姉川古戦場跡。(※写真はイメージです/PIXTA)

1570年(元亀元年)、織田信長は自分を裏切り、朝倉義景に寝返った浅井長政を討つべく兵を挙げました。家康は、どんな思いで「姉川の戦い」に臨んだのでしょうか。作家の城島明彦氏が著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)で解説します。

「信長、万事休す」を救った家康の決断

■家康の決断、窮地の信長を救う

 

6月28日の黎明、戦いの火ぶたが切って落とされると、意外にも、浅井・朝倉軍の方が優勢に立った。信長軍は苦戦に次ぐ苦戦で、満を持したはずの13段構えのうち11段まで打ち破られるところまで押しまくられ、12段の信長の本陣へと迫られた。

 

「信長、万事休す」

 

と思われた危機を救ったのは、家康のとっさの決断だった。

 

家康は、自ら5000の兵を率いて姉川を渡って迂回し、浅井軍の側面を衝いたのである。

 

思いもよらない攻め方をされて、敵兵は激しく動揺し、陣形が大きく乱れ、崩れた。そのタイミングを狙って、稲葉通朝が率いる1000騎の予備隊に右翼を衝かせ、さらに別動隊1000騎を率いる氏家卜全が左翼を襲ったから、たまらない。3方からの総攻撃で形勢はたちまち逆転、浅井勢は総崩れとなった。

 

姉川の南岸近くにある出城の横山城まで陥落。信長・家康連合軍は勝利した。

 

信長・家康連合軍の武将たちは、勝利の余勢を駆って一気に小谷城へ攻め込もうと意気込んだが、信長が下した決断は「撤退」だった。信長の決断を促したのは、意外にも、捕虜にした顔見知りの浅井方の武将(安養寺三郎左衛門)の意見である。

 

「長政の父久政をはじめとする浅井方の武将1800人は、まだ戦場へ討って出てはいませんから“新手も同然”。力を温存しています。それに対し、織田方は、すでに疲労困憊しきっているので、苦労するのは目に見えております」

 

いわれてみれば確かにそのとおりだと信長は思い、「ここは撤退が最善策」と判断したのである。

 

そして、その日から3年後の元亀4年8月、信長は、再び自ら兵を率いて越前を侵略、雪辱戦を挑んで朝倉・浅井連合軍に勝利するのである。

 

長政親子を切腹させたのは信長ではなく、秀吉だった。秀吉は、信長が越前を引き上げた後、長政親子を自刃させ、その時点で浅井氏は滅んだのである。

 

信長の妹のお市の方と浅井長政の3人娘(長女茶々、次女初、3女江)にとって、秀吉は「親の仇」ということになる。だが茶々は、のちに秀吉の側室となって、親の仇の子を産むことになるのだから、残酷である。

 

信長は、浅井から没収した領分22万石を秀吉に与え、大名とした。このとき秀吉は、羽柴秀吉と名を改めた。この改姓改名は、秀吉の如才のなさを示す格好の例として、必ずといっていいほど紹介される逸話である。

 

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※本連載は城島明彦氏の著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)より一部を抜粋し、再編集したものです。

家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

城島 明彦

ウェッジ

天下人となり成功者のイメージが強い徳川家康。 だが、その人生は絶体絶命のピンチの連続であり、波乱万丈に満ちていた。 家康の人生に訪れた大きな「決断」を読者が追体験しつつ、天下人にのぼりつめることができた秘訣から…

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