「信長、万事休す」を救った家康の決断
■家康の決断、窮地の信長を救う
6月28日の黎明、戦いの火ぶたが切って落とされると、意外にも、浅井・朝倉軍の方が優勢に立った。信長軍は苦戦に次ぐ苦戦で、満を持したはずの13段構えのうち11段まで打ち破られるところまで押しまくられ、12段の信長の本陣へと迫られた。
「信長、万事休す」
と思われた危機を救ったのは、家康のとっさの決断だった。
家康は、自ら5000の兵を率いて姉川を渡って迂回し、浅井軍の側面を衝いたのである。
思いもよらない攻め方をされて、敵兵は激しく動揺し、陣形が大きく乱れ、崩れた。そのタイミングを狙って、稲葉通朝が率いる1000騎の予備隊に右翼を衝かせ、さらに別動隊1000騎を率いる氏家卜全が左翼を襲ったから、たまらない。3方からの総攻撃で形勢はたちまち逆転、浅井勢は総崩れとなった。
姉川の南岸近くにある出城の横山城まで陥落。信長・家康連合軍は勝利した。
信長・家康連合軍の武将たちは、勝利の余勢を駆って一気に小谷城へ攻め込もうと意気込んだが、信長が下した決断は「撤退」だった。信長の決断を促したのは、意外にも、捕虜にした顔見知りの浅井方の武将(安養寺三郎左衛門)の意見である。
「長政の父久政をはじめとする浅井方の武将1800人は、まだ戦場へ討って出てはいませんから“新手も同然”。力を温存しています。それに対し、織田方は、すでに疲労困憊しきっているので、苦労するのは目に見えております」
いわれてみれば確かにそのとおりだと信長は思い、「ここは撤退が最善策」と判断したのである。
そして、その日から3年後の元亀4年8月、信長は、再び自ら兵を率いて越前を侵略、雪辱戦を挑んで朝倉・浅井連合軍に勝利するのである。
長政親子を切腹させたのは信長ではなく、秀吉だった。秀吉は、信長が越前を引き上げた後、長政親子を自刃させ、その時点で浅井氏は滅んだのである。
信長の妹のお市の方と浅井長政の3人娘(長女茶々、次女初、3女江)にとって、秀吉は「親の仇」ということになる。だが茶々は、のちに秀吉の側室となって、親の仇の子を産むことになるのだから、残酷である。
信長は、浅井から没収した領分22万石を秀吉に与え、大名とした。このとき秀吉は、羽柴秀吉と名を改めた。この改姓改名は、秀吉の如才のなさを示す格好の例として、必ずといっていいほど紹介される逸話である。