悪意に満ちた「被災地で土嚢を運べばいいのに」
■「無駄に筋肉鍛えるなら被災地で土嚢を運べ」
他にも、意外なところにトレーニングの敵は潜んでいるから覚悟しておいた方がいい。若い子なら不思議だと思われないのに、なぜか還暦過ぎて筋トレに熱中すると、ときおり世間の冷たい視線と出くわすのだ。バタバタと必死に無駄な汗を流すのは、いい年をして大人げないというわけだろう。結果こんなことを言われる。
「そんな無駄なことに力を使うなら困っている人ために使え。被災地に行って土嚢でも運べばいいのに」
冗談めかしているが、いやいやアンタのセリフはたっぷりの悪意で一杯だよ。こういう非難に対しては「ごもっともです」と、うなだれるしかない。
実は「阪神淡路大震災」の当日は香港にいた。初めての長期連載の準備で、中華料理の料理人である故・周富徳さんたちと取材に行っていたのだ。実質的には、この連載が漫画原作家の始まりなので、自分の人生史とも震災は重なっている。ホテルのテレビの画面でグニャリと曲がる高速道路の映像を見てショックを受けたのを今でも覚えている。
「東日本大震災」のときはちょうど「バーテンダー」のテレビドラマ撮影中だった。屋外での撮影が急遽中止になり、少しだけストーリーも変更になった。
この「東日本大震災」をきっかけに、原稿料以外の収入は日赤を通じて復興のための寄付に当てることにした。講演とかイベントの謝礼とかもろもろだ。そもそも酔っ払ったオヤジの話で金を取るのはつねづね申し訳ないと思ってもいたのだ。
映画の「007シリーズ」に『007は2度死ぬ』という回がある。シリーズで唯一日本が舞台になった1本だ。中学生のときにはこのタイトルの意味がわからなかったが、こんな言葉が元にあるという。「人は2度死ぬ。1度目は肉体的な死。そして2度目は忘却。周囲の人が、死んだ人の存在を完全に忘れたときに、死者は本当の意味で死ぬ」
たいして役には立たぬだろうが、小さな寄付を続けているのは、「忘れない」ためだ。「忘れないでいる」という追悼方法もあると思うからだ。
「寄付」と書いたが、気持ちとしては「喜捨」である。自分自身もまた「メメント・モリ」(死を忘れるなかれ)という言葉を思い出させてもらっているからだ。誰かのためではなく「忘れないでいる」のは自分のためでもある。
■「カルプ・ディエム」=「今を生きる」意味
この「メメント・モリ」(死忘れなかれ)という言葉と対句のように使われる言葉に「カルプ・ディエム」(今を生きる)という単語がある。とても好きな同名のシャンパーニュがあってこの言葉を知った。
筋トレでバーベルに向き合う状態は、意図せずこの「カルプ・ディエム」の状態だ。自分で意識を集中しようとしなくても、バーベルの重さが脳に危険信号を発し、今という一瞬だけに集中して、過去も未来も忘れさせてくれる。大事なのは今、ただこの瞬間だけしかないのだ。もしそう思えれば「年齢」ということは意味がなくなる。20歳の「今」も60歳の「今」もまったくその瞬間においては同じなのだ。
人生をこの「今」という点のつながりと見れば、視野が広がる。人が生まれ変化する過程を「成長」と考えるか「老化」と考えるかで人生に向き合う姿勢も変わる。ワインの変化を「酸化」と考えるのか「熟成」と考えるのかの違いと似ている。
「還暦」という言葉も同じだ。それを老化のスタートと捉えるのか、生まれ変わり、人生もう一度やり直すスタートと考えるか、実は、決めるのは自分自身でいい。筋トレはそんなヒントも教えてくれる。「ニーバーの祈り」をご存じだろうか。
<神よ、私たちに変えられぬものを受け入れる心の平穏を与えてください。変えることのできるものを変える勇気を与えてください。そして、
変えられるものと変えられぬものを見分ける賢さを与えてください。>
我々は変えられないこと=生老病死や通り過ぎてしまった己の過去は「なんとかならなかったのか」と後悔し続ける。そのくせいちばん変えられること=「今」には眼を向けない。未来はどうか。それがあるかどうかもわからないのに不安がる。
最後に大げさな話になったが、言いたいのは「年齢なんてただの幻想だよ」ということだ。自分自身、歳をとって賢くなったとも、謙虚になったとも、優しくなったとも、大人になったとも思えない。歳とともに変わったことがあるとすれば、そんな自分でいいのではないかと「諦め」がついたことだ。
19世紀のアメリカにエミリー・ディキンソンという女性詩人がいた。10代で引きこもりのような生活になり、その後のほとんどを自室から1歩も出ることなく生涯を終えた。
詩人としても、生前は7編の詩を地方紙に発表しただけで、世間的にはまったく無名のまま人生を終えた。そんな詩人がこんな言葉を残したという。社会経験などほとんどなく、人とも交わらず、ただ部屋のなかで言葉を紡ぐだけの人生のなかから到達したと思うと感動する。
「私たちは年とともに老いていくのではなく、日々新たに変わっていくのです」
城 アラキ
漫画原作家
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