※画像はイメージです/PIXTA

戦国時代に終止符を打った徳川家康。彼はいかにして天下を取り、260年続く江戸幕府の礎を築いたのでしょうか。家康の業績から、現代で企業が競争に勝つために必要なことを考察していきます。

「徳川家康」の生涯

家康は、いわずと知れた江戸幕府の初代将軍です。1542年、現在の愛知県岡崎市で、岡崎城主松平広忠の嫡男として誕生しました。

 

家康が6歳のとき、今川家へ人質に出されることになります。松平広忠が、近隣諸国から自国を守るべく今川家に助けを求めたところ、今川家当主の今川義元が忠誠の証として人質を要求し、弘忠がこれに応じて息子の家康を差し出したのです。

 

ところが、家康を今川家へ護送する際、付き添いの戸田宗光が裏切り、家康を織田信長の父である信秀のもとへ連れていってしまいます。家康は以降約2年間、信秀が創建した織田家の菩提寺である万松寺で過ごすことになります。

 

一方、裏切りに激怒した今川義元は戸田家を滅ぼし、次いで織田軍にも攻め込みます。信秀の息子であり信長の兄である織田信広を捕らえた今川義元は、信弘と人質を交換する形で家康を呼び寄せました。家康が18歳になった1560年、桶狭間の戦いが起きます。この戦で今川義元が織田信長に敗れると、家康は今川家を離れ岡崎に戻ります。

 

その後、織田信長と同盟を結んだ家康は三河国を統一。次第に勢力を拡大していきます。1582年に本能寺の変で信長が死んだあと、家康は一度秀吉と争いますが、すぐに改め、秀吉の天下統一を手助けする側に回ります。1598年に秀吉が死ぬと、1600年に関ヶ原の戦いで石田三成を討ち、今度こそ晴れて天下人となるのです。

 

1603年、征夷大将軍に任命された家康は、江戸幕府を開きます。わずか2年で子の秀忠に将軍職を譲位しますが、その後も大御所という立場で政権を握りました。そして、1614年から1615年にかけ大坂の陣で豊臣氏を滅ぼしたあと、1616年、73歳でその生涯を閉じたのです。

なぜ家康は天下を取れたのか?

家康が天下人になれたのは、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いに勝ったからです。ただ、実はこれ以前にも一度、家康は天下を取りに出た過去があります。それは、有名な小牧長久手の戦いです。これは、信長の死に乗じ嫡孫の織田秀信を担いで天下取りに乗り出した秀吉と、信長の次男である信雄に頼られた家康が争った戦いでした。

 

先述のとおり、家康は秀吉に臣従することになったわけですが、家康は決して秀吉に敗れたわけではありませんでした。むしろ、実戦で優勢だったのは家康だったといわれています。それなのに、なぜ家康はこの戦いを終わらせ、和議を結び臣従したのでしょうか。

 

その理由として、真田家の抵抗に遭い北条氏との同盟条件を満たせなかったこと、1583~84年にかけ、大雨や地震による天災の影響で戦況維持が困難になったことなどが考えられています。戦で負けたわけではなかったのです。

 

いずれにせよ、私はこのとき臣従の決断ができたからこそ家康はのちに関ヶ原で勝利を得ることができ、天下を取れたのだと思っています。そしてその決断をどのように導き出したかは、現在のリーダーたちにも非常に参考になるはずです。

 

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