川柳「鳴くまで待とう」から紐解く、家康の秀でた能力
家康の戦略立案やマネジメントを表現する際に用いられる有名な川柳です。家康は待つことができた、言い換えると「時機を見極める能力に秀でていた」ということになります。
小牧長久手の戦いのころ、信長がクーデターによって急逝したことで訪れたチャンスを掴むべく、全国の猛者たちが台頭するチャンスを窺っていました。天下を取るにはそんな彼らをすべて屈服させなければなりません。
いかに一対一なら最強の三河武士であっても、徳川家単独で日本全国を相手取って武力で上回ることは不可能です。ですから、外交が不可欠になります。その外交を優位に進める決め手が、まだ家康にはありませんでした。それに対し、秀吉は信長を殺した明智光秀を倒しています。さらに、信長の嫡孫である秀信を担ぎ出すことに成功していました。この状況では、ここでたとえ秀吉に勝っても天下を取るには膨大なエネルギーが必要であると家康は考えたのではないでしょうか。
小牧長久手の戦いでは、江戸時代後期の歴史家である頼山陽に、「家康公の天下を取るは大阪にあらずして関ケ原にあり。関ヶ原にあらずして小牧にあり」といわしめたほどの見事な戦いで、2万~3万の軍勢で10万の豊臣軍に圧勝しています。それが可能な武力と知力を持っていながら、それでも時機を見て引くところは引く選択ができた点に家康のすごさがあります。
天下を取る「タイミング」を家康が見極めた背景
しかし、ただ引いていたのでは勝つことはできません。時期を見極めて勝てると確信し、家康は動きました。実際、関ヶ原の戦いに勝利して見事に天下を取りました。では、ここで家康が勝てると見極めた背景はなんだったのでしょうか。それは、組織が仕上がったことだったと思います。
戦いに勝って、さらにその体制を維持していくことができる組織を持てたことが家康に決断をもたらしました。ここでの組織力はその大きさもさることながら、いかに本質にのっとって組成されたものであるかということです。
人と人の繋がりは有益性によって成り立っています。家康が組織を率いる際に意識していたのはまさにこれではないでしょうか。
先ほどもお伝えしたように、天下を取るには外交が必要ですが、交渉では自らが得ようとするものを手に入れるために相手にも与えなければなりません。秀吉と対峙したとき、家康が持っていたものは、現在の愛知県三河地方と静岡県、長野県、山梨県あたりまでのわずかな領土でした。
長宗我部氏と北条氏と組んだとはいえ、ほぼ対等な同盟関係で、それを維持するための条件に常に翻弄されているような状況でした。それに対し、秀吉はすでに畿内全域と北陸を抑え、中国地方も傘下に収める寸前でした。
この状況を打開しようと、現在中立の諸将を取り込み維持するためには相当の有益性を提供しなければなりませんが、当時の家康にはまだそれがありませんでした。緒戦の勢いのまま戦況を拡大させても、戦線や戦力を維持することが難しい状況だったのです。
そこから数年のときを経て、家康はのちに関ヶ原の戦いに勝利します。石田三成ら西軍が過去に秀吉から受けた恩や義理、人情によって軍の統率を図ろうとしたのに対し、家康は「どちらに与することにより利があるか、大義があるか」を説いて仲間を増やし、結束を強めていきました。
最後は秀吉から寵愛されていた小早川秀明の家康軍への寝返りによって勝負が決したことを思えば、組織が何によって成り立ち、どう維持していくかの本質を見極めていたからこそ家康が天下を取れたといえるのではないでしょうか。
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