義元死後、家康がとった驚くべき行動
■大高城撤退と岡崎城入城
桶狭間の本陣で酒宴に興じていた今川義元が、信長の急襲を受けて討たれたのは、5月19日の未の刻(午後2時頃)。元康が大高城への兵糧入れを成功させた数時間後のことだったが、その知らせが元康のもとに届くのは翌日の暮れ方になってからだ。
最初に知らせてきたのは、井伊直盛(2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」の父)の家臣だった。元康は驚いたが、もともと石橋を叩いて渡る慎重な性格。飛び込んできた情報をその場で鵜呑みにすることはなかった。ところが、追って伯父の水野信元の使いの者(浅井六之助)がやってきて、義元の戦死を伝えた後、こう助言した。
「ここは危険です。信長の軍勢が明日にもやってくるかもしれない。その前にこの城から出て、岡崎へ向かわれるのがよろしかろう」
それでも元康は信じなかった。水野信元が亡き母お大の方の兄であっても、今は織田方に属しており、嘘をいっているかもしれないと疑ってかかり、軽挙妄動につながる安易な速断を避けたのだ。元康は、真偽のほどを確かめるために密偵に調べさせた。事実関係が判明したのは翌日になってからだが、すぐには動かず、夜になるのを待って大高城を出た。
ただし、その足で岡崎城へは向かわなかった。岡崎城には今川氏の残兵がいたからで、元康は、このように慎重な行動をとり、翌日、大樹寺(松平家の菩提寺)に入ったのである。
岡崎城に残っていた今川氏の将兵たちは、まもなく、櫛(くし)の歯が欠け落ちるように一人、また一人と城から逃亡した。
誰もいなくなったことがわかると、元康は、
「捨てられた城ならば、拾おうじゃないか」(捨て城ならば、拾わん)
堂々と岡崎城へ入城するのだった。義元が殺されてから4日後、5月23日のことである。
重要局面で見せた、こうしたエピソードからわかるのは、まさに「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」式の“待ちの決断術”である。
武田信玄は、元康が大高城から撤退した様子を家臣に詳しく報告させ、機嫌よく次のように述べたと武田家の軍学書『甲陽軍鑑』は記している。
「元康は、武道と分別の両方の達人である。まさに日本一の若武者といってよかろう」
信玄は元康より21歳年長なので、このとき40歳。19歳の元康には父親ほどの年齢だ。
■信長に渡った名刀「左文字」
信長は、義元が佩びていた刀剣をわがものとした。筑前の刀匠左文字がこしらえた名刀「左文字」である。信長は、刀身の長さを少し短く加工し、次の文字を金で象嵌した。
(表)永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀 ※永禄3年は1560年
(裏)織田尾張守信長
この刀は、持ち主が転々とした。最初の所有者は三好政長(法名宗三)だったが、1536(天文5)年に武田信虎(信玄の父)に献上したところから、流転の運命が始まった。信虎は、娘を義元に嫁がせるときに引き出物として贈った。義元はおおいに気に入り、いつも佩びていたが、桶狭間の戦いで殺害され、信長に奪われた。
だが、信長は本能寺で左文字で自害し、左文字は秀吉を経て秀頼の手に渡るが、秀頼は大坂夏の陣に敗北して大坂城で自害し、家康の愛刀になるのだ。そして家康没後は、徳川家で保管され、明治2(1869)年に天皇の命で創建された建勲神社(京都市北区)に寄贈された。建勲は、明治天皇が信長に贈った神号である。神君と建勲。韻を踏んで心地よい響きがある。
こういう経緯をたどったとされているが、妖刀村正とはまた違った、どこか“不吉な影”がついて回っている点が興味深い。三好政長から献上された武田信虎は、その5年後に実子信玄に追放されるし、次の義元は油断して負けるはずのない信長に命を奪われ、信長は本能寺で命を落とし、秀頼は大坂城で自害して果て、家康は天ぷらにあたって死に至る。
しかし、細かく詮索していくと、“眉唾っぽい”ところもある。
たとえば、「本能寺の変では寺は炎上し、信長の死骸は発見されていないのに名刀が焼け爛れたにしろ、残っていたのは妙だ。また、大坂城も炎上している」といった疑問がそれだが、それはそれとして、伝説を楽しめばよいのではないかと私は思っている。
城島 明彦
作家
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