自由な研究環境を求めて東大へ
私がペイシェント・ベイスド・メディスン(以下、PBM)という考えに思い至ったのは、私自身の半生や取り巻く環境が大きく影響を及ぼしています。
私は久留米大学医学部出身ですが、出身大学ではない東京大学を研修の場として選んだのは、東大は実力さえあれば、学閥にとらわれずに自由に研究ができると聞いたからでした。
実際に東大時代は、専門である角膜疾患や白内障の臨床、角膜内皮細胞の培養などの基礎研究と、多くの興味深い研究に没頭することができました。
しかし私が東大で研究できる期間には限りがありました。いずれは故郷に帰り、実家の病院を継ぐと決めていたからです。
ただ、私が実家に戻って家業を継ぐにあたって、一つだけ条件を出しました。それは「研究室を作ってくれるのであれば、宮崎に戻る」というものです。
父はこの条件をのんでくれました。そこで私は宮崎県に戻って、病院を継いでからも、研究に打ち込むことができたのです[図表1]。
「未来ではなく今すぐ患者を治したい」
宮崎県に戻って初めのうちは、角膜内皮細胞の培養など、東大病院時代の研究をそのまま継続して行っていました。当時はまだ、内皮細胞を培養できる人材が日本で少なかったため、依頼を受けていろいろな大学に細胞の供給なども行っていました。
ところが次第に「私がやるべき仕事はこれでよいのだろうか」という疑問が湧いてきました。
私たちのところには毎日のように、白内障で瞳が真っ白になってしまったり、感染症で失明寸前だったり、あるいはすでに角膜に穴が開いてしまっていて緊急の移植手術をしなければならない多くの患者が訪れます。
患者の中には既存の治療法でうまくいく人もいれば、そうでない人もいます。
日々診療に励む中で「自分がすべきことは細胞培養のような基礎研究ではなく、今、目の前で苦しんでいる患者を一人でも多く救うための研究ではないだろうか」という考えが次第に頭の中を占めるようになっていきました。
研究には細胞や実験用マウスを使った基礎研究と、実際の患者を対象とした臨床研究があります。私が東大時代から行っていたのは基礎研究です。
基礎研究は新たな治療法や薬を発見するために、極めて重要なものです。しかし基礎研究の結果が出るまでには長い時間、多くの場合は十年単位の時間がかかります。研究の成果が出て、患者に還元できるようになるまでには、ひと世代はゆうにかかるのです。
私たちのところへ眼の痛みや苦しみを訴えてやってくる患者は、何十年も待つことはできません。今この瞬間に、痛みを抑えて光を取り戻したくて私たちを頼って来てくれているのです。
基礎研究から臨床研究へ
このことに気づいた私は、それまで抱えていた研究を、東大のかつての同僚や後輩たちに研究費や研究テーマをあわせてすべて委ねました。基礎研究を積み重ねて、ゼロから新しい治療法を発見するのは今の私の仕事ではなく、大学の仕事だと感じたからです。
そして私自身は今すぐ診療に使えて、目の前の患者を効率よく治すことのできる方法を追求する方向に、大きく舵を切ったのです。
10年後ではなくて今すぐ、明日にでも、目の前で苦しむ患者を治したかったのがその理由です。