戦争の副産物「インフレ」の実態
過去の戦争において副作用であるインフレは、どの程度進行していたのでしょうか。日本における過去の戦争で、インフレがもっとも進んだのは、いうまでもなく、戦費の規模が突出して多かった太平洋戦争です。
太平洋戦争は、最終的には日本経済の破たんと、準ハイパーインフレをもたらしてしまいました。
■太平洋戦争によるインフレで物価は180倍に
太平洋戦争の戦費総額はGDPの約9倍という途方もないものでした。このほとんどを国債の日銀直接引き受けによって賄ったわけですから、財政インフレの発生は必至でした。
経済体力に比して戦費がかかりすぎることについては、戦争が始まる前から懸念されていました。しかしこうした声は精神論にかき消され、顧みられることはなかったようです。最後には、「わが国に皇室のおわしますかぎり、いくら紙幣を増発してもインフレにならぬ」と公言する右翼の大物まで出てくる状況でした。
東京の小売価格指数は、日中戦争が始まる前年の1936年からの比較で、終戦となる1945年までの間に約3倍に上昇しました(図3-3)。
1937年から太平洋戦争の開戦となる1941年まで急ピッチの上昇が続き、その後、しばらく横ばいの期間が続きます。これは太平洋戦争の開戦をきっかけに、経済統制が強まったことが原因と考えられます。その後、戦局の悪化がはっきりしてくる1944年頃から再びインフレの上昇ペースが速まり、終戦にかけてさらに加速する結果となりました。
しかし、戦争期間を通じて3倍の物価上昇で済んでいたのは、国家による強力な価格統制があったからです。
日本政府は1938年、国家総動員法を施行し、自由主義的な経済から国家による統制経済に移行しました。生活必需品をはじめ多くの商品が価格統制の対象となり、見かけ上インフレは抑制されることになったわけです。
しかし、どんなに価格統制を強化しても、貨幣の乱発と物資不足から来るインフレは進行しており、公定価格とは別の闇価格が形成されるようになってきます。最終的には戦後の準ハイパーインフレという形で、すべての帳尻を合わせる形となってしまいます。
図3-4は、戦後、物価が安定する1952年までを通算した物価指数の推移です。価格の上昇が激しいので、こちらは対数グラフに直してあります。
グラフの濃い線は、闇市場価格における物価推移を示しています。戦後、闇市場は半ば公認され、市場データも記録されるようになりましたが、戦時中、闇市は禁止されており、公式のデータは存在していません。
終戦から2カ月経った1945年10月時点において、闇市価格と公定価格には15倍程度の差がありましたから、戦争期間中にすでに実質的に物価は45倍になっていた計算になります。
終戦後は、それまでの統制経済で表面化していなかったインフレがすべて顕在化します。また日本国内にある生産設備の半分以上が戦災で稼働できない状況だったことから、完全な供給不足に陥っていました。
国債の大量発行と極端な供給制限の顕在化によって、準ハイパーインフレとも呼べる状況まで物価は加速したわけです。
最終的に物価が落ち着く1952年までの間に、小売価格は約180倍に上昇しています。これは現金の価値が180分の1になったことと同じですから、現金を保有していた人は、ほとんどの資産価値を失ったことになります。
もっとも戦時中はインフレといっても、物資が極端に不足しており、どんなに高い価格を提示しても購入すること自体が難しかったと考えられます。日々の食料確保にも事欠く状態であり、高価な着物を売って、ごくわずかな食事にありつくというのが日常的な光景でした。
したがって、国民の生活感覚としてあまりインフレは意識されなかったかもしれません。多くの人がインフレを認識するのは、終戦後、自由な経済取引が解禁されてからのことです。