人材を流動化しても増えない給料
■日本的雇用は遅れているのか?
グローバリズムの波にのまれて、日本のルールがいろいろと変えられてきたなかで、日本的雇用はダメなもの、時代遅れだと評されるようになりました。いわゆる終身雇用、新卒一斉採用、そして年功序列です。
この風潮は、終身雇用をやめて、人材の流動化、労働力の流動化を進めていくことこそが産業のさらなる発展と成長を促すというトレンドから出てきました。
しかし、ひとつの企業のなかで、その人の人生を全うしてもらおうという考えは本当におかしなことだったのでしょうか。その過程で家庭もつくって、会社も従業員も一体となって時間を過ごしていこうという考え方が、そもそも間違っていたのかということを、何も検証していないはずです。
グローバル化が始まった頃、日本型の終身雇用はそもそも間違いなのかという問いかけではなく、もうダメなのだ、世界的に遅れているのだという決めつけた言われ方をして、制度を見直していったような気がします。
マルクスの『資本論』によれば、資本主義経済では基本的に労働力は商品です。さらに資本主義はすべてを商品化すると見ています。事実、米英型資本主義、つまりアングロサクソンの世界はそうなっています。働く者は「人材」と言い換えられて自身の技能を売り、賃金報酬を得ます。
会社もその価値は株式市場で決まり、丸ごと、あるいは事業部門が売り買いされます。会社はあくまでも株主のものであり、最高経営責任者(CEO)に代表される経営者は株主価値=会社の時価総額を増やすよう求められ、従業員を整理して収益を上げて株価を押し上げ、高い価格で会社を売却するのです。
2001年にアメリカが小泉改革を強力に支援した背景には、日本をアングロサクソン型の世界にしようという意図もあります。しかし日本には伝統的にそういう考えはありませんでした。米英と労働や会社に対する価値観、考え方が違うからといって、必ずしも間違いや遅れではないはずです。
日本社会のコミュニティというか共同体のなかに、この終身雇用制のようなものが戦後の混乱期、成長期でいつの間にか定着してしまったわけです。それを外から見て「おかしいぞ、労働力は商品のはずだ」とばかりに、日本を『資本論』の世界に変えてしまったのが新自由主義ではないかと思います。
新自由主義とは、すべてを資本の論理即ち市場原理にまかせれば経済はうまく回る、政府は小さくすべきだという考えで、資本主義を否定するマルクス主義とは対極にあるイデオロギーですが、極端と極端は結びつくのです。
大きなポイントは、いわゆる日本的雇用を行っているとき、日本経済状況は悪かったのかといえば、そんなことはなかったということです。むしろ、対外競争にも勝ち抜く強さが個々の企業にも実際にあった時代でした。
1970年代の前半から後半にかけて、オイルショックが2回ありました。操業短縮、生産縮小などで従業員が余剰となり、大手企業は人員整理としてレイオフを行いました。レイオフは「一時帰休」と訳されますが、業績が回復したときの再雇用を条件とする一時的な解雇のことです。ただアメリカだと、けっこうそのままクビです。
その頃、日立製作所のトップに取材したら「レイオフをやる」と言う。「じゃあ、クビ切りして従業員を整理するんですね」と確認したら、「そうではない」と。工場は操業が止まっているのに、どうするのかなと思ったら、彼は「従業員には工場の敷地に生えているペンペン草をむしってもらい、給料は規定通り払う」と答えました。
工場生産の労働はカットせざるを得なくても、時間外労働はなくなってもなんとか働く環境を用意したのです。これぞ終身雇用です。
昔は企業城下町を持っている大手の企業がいっぱいありました。トヨタ自動車の豊田市、日立製作所の日立市などはそのままの名前ですけど、それ以外にも松下電器の門真市、旭化成の延岡市、スバルの太田市、キッコーマンの野田市、ヤマハ発動機の磐田市など、挙げればきりがありません。不況で余剰な労働力が生まれても、完全な解雇は行わないので、企業城下町の人口も減らずに維持されてきました。
当然、従業員の企業に対する忠誠心は強くなります。日立製作所の取材で日立市に行くと、完全に日立の街です。地元の人は日立に雇ってもらえば一生安泰、生涯万々歳というような感じでした。
それが絶対的にいいことだとは言いませんが、伝統的に日本が持っていた社会構造とも重なり合う、「働く」ということの意味を、再度問い直すときにきているのかもしれません。
田村 秀男
産経新聞特別記者、編集委員兼論説委員