社会保障から見たESGの論点と企業の役割…健康経営を巡る「言説」の変遷を追い、今後の方向性を探る

社会保障から見たESGの論点と企業の役割…健康経営を巡る「言説」の変遷を追い、今後の方向性を探る
(写真はイメージです/PIXTA)

企業経営や投資の世界で語られる「ESG」。そのうち「S」の観点を意識しつつ、従業員の健康づくりの重要性が論じられる「言説」の変遷を追うことで、医療費適正化にとどまらない傾向が強まっている点をニッセイ基礎研究所 三原岳氏が解説します。

4―健康経営の再考

1.健康とは何か

そもそも論として、「健康」とは何かという点を改めて考察したいと思います*9。実は、健康の定義は複雑であり、健康経営を含めた健康づくり政策を語る時には欠かせないと考えています。

 

例えば、WHO(世界保健機関)は1946年7月の憲章で、「健康とは病気がないとか弱っていないというだけではなく、肉体的、精神的、社会的に完全に満足な状態であること」と定義しています*10。

 

しかし、どちらかと言うと、これは感染症が中心だった時代の議論と言えます。疾病構造が慢性病に変わる中、病気や障害と上手く付き合いつつ、通常の社会的な役割を果たせる人が増えています。さらに高齢化の進展で、複数の病気や疾患を持つ高齢者も増えている実態を踏まえると、「肉体的、精神的、社会的に完全に満足な状態」を実現することは相当、困難ではないでしょうか。

 

つまり、病気の有無だけで、「OOさんは健康」「XXさんは不健康」と線引きできなくなっていると考えられます。その観点で言うと、生活習慣病対策に関心が集中していた当初の議論は「健康=運動=生活習慣病を防ぐこと」と狭く考えられていた感がありました。筆者が当時の風潮について、違和感を持った理由の一つは正にここにあります。

 

これに対し、オランダの女性医師が提起した新たな健康の概念が最近、注目されています。ここでは「完全に満足している状態」とするWHOの定義が医学で対応せずに済む問題を医学で解決しようとする「医療化」などの弊害を招くとし、健康を身体的、精神的、社会的な側面で環境の変化や問題に「適応し、対応できる能力」(the ability to adapt and self manage)と定義されています*11

 

例えば、精神面に不具合を感じている人の場合、業務上でのストレスを根絶することが難しい場合、上司や同僚、産業医、産業保健師などに支援を求めるなど、うまく適応できる力が問われるというわけです。

 

企業の健康づくりについても、こうした概念を重視する必要があると思います。具体的には、メタボ健診を中心とする生活習慣病対策だけでなく、適切な人事・労務管理や快適なオフィス環境の整備、メンタルヘルス対策、風通しのいい職場づくりなど総合的な対策が必要であり、このスタンスに立つと、かなりの部分が働き方改革や非財務情報重視の傾向と重なって来ます。

 

言い換えると、メタボ健診を活用した生活習慣病対策の必要性は理解できますが、それだけでは企業経営を俯瞰するような総合的な視点は生まれにくいのではないでしょうか。

 

*9:「健康」の意味合いについては、2020年10月7日拙稿「健康寿命の延伸とは?」、2018年9月28日拙稿「健康とは何か」を参照。

*10:日本WHO協会ウエブサイトを参照(http://www.japan-who.or.jp/commodity/kenko.html)

*11:Machteld Huber et al(2011)“How should we define health?”British Medical Journal 343(4163)。

2.社会的決定要因に注目を

さらに、個人を取り巻く環境が健康に影響を及ぼす「健康の社会的決定要因」も踏まえる必要があると思っています。これは健康、不健康を生み出す要因を本人の努力だけに求めるのではなく、周囲の環境にさかのぼる考え方であり、職場の健康づくりという点で見ると、イギリスの公務員を対象とした「ホワイトホール研究」が分かりやすいと思われます。

 

この研究では、社会保障の給付水準や失業リスクの低さなど条件が近いにもかかわらず、高い地位の公務員の疾病・死亡リスクは地位の低い人よりも低いと分析されています。さらに、裁量性の高い仕事に従事している人よりも、自らの判断や裁量で働きにくい人の方が不健康になるリスクが高いと結論付けられています*12

 

言い換えると、ストレスの高い職場では従業員が不健康になるリスクが大きくなり、プレゼンティーズムも生まれやすくなると言えます。このように個人の健康、不健康の線引きを周囲の環境に求めつつ、個人と職場の両方の改善策を考えることは風通しの良い職場づくりや労務管理、オフィス環境の整備などに繋がるため、結果的に働き方改革や非財務情報強化の動きと多くの部分で重なります。さらに、社員と企業、投資家などのステークホルダーにとっても、「Win-Win」な健康経営が作り出されると考えられます。

 

*12:Michael Marmot(2015)“The Health Gap”〔栗林寛幸監訳(2017)『健康格差』日本評論社〕を参照。

3.介護離職、障害者への配慮を

最後に、現在の健康経営を巡る議論で物足りなさを感じる点として、介護離職と障害者への配慮を挙げたいと思います。

 

このうち、前者の問題では2015年9月、安倍晋三首相が「介護離職ゼロ」を掲げたことで、一気に企業の関心が高まり、▽実態調査の実施、▽相談窓口の設置、▽介護休業・休暇制度の創設――といった対策が進みました*13。介護を理由とする離職者は年間10万人程度であり、ここ数年は特に増減しているわけではありませんが、それでも健康経営で重視されている人的資本形成の必要性とか、プレゼンティーズムの解消、メンタルヘルスの観点で、非常に重要と思います。

 

しかも、国の委託調査によると、介護離職者の43.4%が「手助・介護」のために仕事を辞めた理由として、「仕事を続けたかったが、勤務先の両立支援制度の問題や介護休業等を取得しづらい雰囲気があった」と答えています*14。その意味では、介護離職を相談しやすい雰囲気づくりや人事面談のヒアリング、人事面での配慮などが求められています。

 

しかし、健康経営の文献や論考などを読んでも、がんなどの治療と仕事の両立に触れている意見は多いものの、介護離職は必ずしも位置付けられていない印象を受けます。これまで折角、企業で様々な取り組みを積み上げてきた以上、これを人的資本形成や健康経営に結び付けないのは少しもったいない気がします。

 

もう一つ、障害者に対する配慮も物足りなさを感じる点です。健康経営に関するセミナーなどを聴講していると、女性の特有の健康問題への配慮、不妊治療と仕事の両立支援、LGBTQなど性的少数派への配慮などが多く論じられるようになっており、SDGs(持続可能な開発目標)やESG、非財務情報強化の流れで、企業におけるインクルージョン(包摂)やダイバーシティ(多様性)の必要性、人権への配慮が強調されるようになっています。

 

しかし、その割には障害者への配慮がスッポリ抜けている印象を持ちます。障害者への配慮に関しては、合理的配慮の提供を民間企業にも義務付ける改正障害者差別解消法を取り上げた第2回、 障害者の能力向上を図る必要性を指摘した第3回で詳しく述べたので、ここでは繰り返しませんが、健康経営や人的資本形成という点で見ると、企業や特例子会社*15で働く障害者への配慮も重要になると考えられます。

 

今後、非財務情報の開示を意識する企業が増えて来ると思いますが、こうしたトータルの視点を踏まえつつ、従業員の健康づくりや人的資本形成に繋がるストーリーの形成を意識して欲しいと考えています。

 

*13:介護家族支援も加味した介護離職の問題に関しては、介護保険制度20年を期す拙稿コラムの第21回も参照。

*14:三菱UFIリサーチ&コンサルティング(2022)「仕事と介護の両立等に関する実態把握のための調査研究事業報告書」を参照。有効回答数は945人。

*15:障害者雇用の促進のために設立された子会社を指す。特例子会社で採用した障害者の数を法定雇用率に算定できる。

※ 「健康経営」はNPO法人健康経営研究会の登録商標。

※ 障害」の「害」の字が近年、不快の念を与えるとして、「障がい」と言い換えるケースが増えているが、本コラムでは引用などのケースを除き、法令上の表記に従って、「障害」で統一した。

 

次ページ5―おわりに

※本記事記載のデータは各種の情報源からニッセイ基礎研究所が入手・加工したものであり、その正確性と安全性を保証するものではありません。また、本記事は情報提供が目的であり、記載の意見や予測は、いかなる契約の締結や解約を勧誘するものではありません。
※本記事は、ニッセイ基礎研究所が2022年11月14日に公開したレポートを転載したものです。

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