(※写真はイメージです/PIXTA)

人生100年時代。NPO法人「老いの工学研究所」理事長の川口雅裕氏は、書籍『年寄りは集まって住め』のなかで、親子の対話と「有終写真」について解説しています。

なぜ、親子の対話ができないのか?

終活イベントに友達連れで足を運んでいる人たちは、実に楽しそうです。

 

棺桶に入ってみたり、遺影を入れる黒枠から顔を出して、「遺影でイエイ!」と言って写真を撮ってみたり。あの明るさは、いつか死ぬことをある程度リアルに捉え、受け入れているからこそ出てくるものでしょう。

 

ただし、そういう方もいざ家族と面と向かってその話をするとなると、同じように陽気ではいられません。

 

親からすれば、「死んだら葬儀はこう、墓はこうして」といった要望は子どもを縛りつけるようだし、今さら「面倒をみてほしい」などと言えるわけがない。

 

「自分とは違って、子どもには好きなようにさせたい」と考え、自由にさせてきた人が多いからでしょう。

 

就職や結婚も昔とは違って「本人が良ければ」といって本人の言う通りにさせてきた親が大半であるように見えます。それだけ自由にさせてきたのだから、今さら一貫性のないことは言えない。

 

そんな矜持のようなものがあるように思います。

 

子どものほうからしても、親に介護や死後の対応などを切り出すのはかなり難しいことです。

 

そもそも本人に向かって「介護」や「死」といった話をするのは気が引けます。さらに、現代は、子が親に対して「孝行らしいことを何もできていない」という後ろめたさを持ちがちです。

 

離れて住んでいたら、余計にそれを感じます。放置している自分に、親に何か言える資格があるのか。そんな気持ちにもなるでしょう。

 

時代が変わっているようで、実は今も「親の面倒は子がみるもの。他人の世話になるのは恥ずかしい」といった昔ながらの感覚が残っているわけです。

 

理屈の上では、介護保険料を負担しているのでもっとドライに考えてもいいのですが、なかなかそうはなれません。

 

だから、介護施設に親を入れるとなると後ろめたさがじわじわ湧いてくる。現実に目を向けたくないために、面会に行かなくなっていく。介護施設にいる親が亡くなったときにホッとする。そうなるのだと思います。

 

そうやって対話のないまま、そのときを迎えるのは良くありません。なんとか相互理解と合意の機会を持ちたいものです。

 

そういったプロセスを経ているかいないかで、心の持ちようは大きく変わります。

 

最終的に施設にお願いすることになっても、能動的に働きかけて関与したというプロセスを経てそこに至るのと、何も合意形成がないまま施設に入所になるのとでは、子ども自身の罪の意識は大きく違ってきます。

次ページ「後はヨロシク」…親子を対話させる「有終写真」とは

本記事は幻冬舎ゴールドライフオンラインの連載の書籍『年寄りは集まって住め』(幻冬舎MC)より一部を抜粋したものです。最新の法令等には対応していない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

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