退院できたらもう一度体を鍛え直すか
■ガンにもなったことだし
還暦を2年ほど過ぎた頃にステージⅡの大腸ガンになった。大学病院の最上階の個室。窓一杯に冬の陽が差し込んでぬくぬくと気持ちがいい。そのためか担当のK先生、手術前からしばしば遊びに来ては見舞いのチョコレートなどつまんで話し込んでいく。
呼び出しコールがあると指についたチョコレートなめなめ「ちょっと行ってきますね。また後で」と、ついでの買い物にでも行くように立ち上がる。どこに行くのかと思ったら、これから5時間の手術だという。人の生死が関わっているのに、テレビドラマの手術シーンの緊張感など全然ない。
そりゃ毎日のことだから、いちいち緊張していては身が持たぬだろう。とはいえ、外科医は肉体的にも精神的にもタフじゃなきゃできない仕事だなと、感心を通り越して呆れた。
■再発率は「3割打者」?
K先生に訊いた。
「ところで、今回の私の手術って10段階でいうと難易度どのくらい?」
ちょっと首をかしげ「5くらいかな」と、不安にもさせないが、安心もさせない絶妙なお答え。
「ぶっちゃけ再発率3割とかどう考えたらいいんだろうね」
「野球だって3割打つバッターって凄い強打者じゃないですか。ま、そんな確率」
「……ん?」
なんだそれ(笑)。それがどんな分野であれ「絶対に」と言ったらそいつは信用してはいけない。
「絶対に治る」
「絶対に儲かる」
「絶対に」と言っていいのは「絶対に君を幸福にするから」とプロポーズをする男子だけだ。この「絶対」はウソをついているのではなく若さゆえの無知だから神様も許してくれる。
私より一回りほど若いK先生の手術の技量が「名医18」レベルであるかどうかは知らない。素人には知りようもない。でもこの先生に手術されて死ぬならまぁしかたない。これも運命だと諦めるか、と思えた。その意味でK先生が「良医」であることだけは間違いなかった。
■手術前日に鏡の前で思った
手術前日、鏡の前で裸の我が身を見る。さすがに体重だけは激しく減って、高校生のとき以来の身長174㎝、体重68㎏。どんなダイエット法も病気にゃかなわない。大臀筋の筋量が落ちて尻の皮がしわになっている。
まるでしぼんだ風船だ。上腕も細く、力を入れても二頭筋の気配もない。胸もつるんと平らで胴との境もあやふやだ。
そのくせお腹だけはぽっこり立派なメタボ。これが私か。「う〜ん、ちょっとカッコ悪いな。もし退院できたらもう一度体を鍛え直すか」と、このときボンヤリと思ったのがすべての始まりだったのかもしれない。
■動けない体で考えた
ストレッチャーに横わり手術室に入る。頭上に見えるのは小顔をマスクで半分隠し、だからこそクリッと大きな二重瞼が目立つベッピン麻酔医さん。私、緊張するとふざけたがる悪いクセがある。つまり怖がりなのだ。ベッピンな先生を見た途端に思いつく。
先生が「はい、数を数えてください。イチ、ニイ、サン……」と言ったらこう答えよう。「先生……いま何時だい?」そう。ご存じ落語の「時そば」だ。こりゃ絶対にウケる。ところが最近の麻酔は瞬時に効く。先生が「はい……」と言ったときには意識がなくなっていた。
意識が戻ったときは腕に点滴、チンチンには採尿の管。背中には麻酔のチューブ。5つ開けた腹の小穴にも何やらパイプ。胸には心電図のケーブル、脚には血液凝固を防ぐためか、ふくらはぎを締めたり緩めたりの落ち着かぬ機械。これじゃまったく身動きがとれん。ともあれ、とりあえずなんとか生還したらしい。