地下街の書店、初春号より売り切れが続出
CMの反響はすぐに雑誌販売数に表れました。駅ビル地下街の書店や駅売店での売れ行きが一気に伸びたのです。
名古屋の地下街は名古屋駅と栄駅の各駅周辺にありますが、東京駅や大阪駅の地下街に比べて両方とも幅広く長い設計となっています。おそらく名古屋の夏は酷暑で、冬は伊吹おろしが吹いて寒いため、広く大きく造られたのではないかと思います。1978年当時も広い通路にはたくさんの人がひっきりなしに往来していました。書店も広い店舗が4~5店入っていて、地元民から出張のビジネスマン、旅行客など多くの人に利用されていました。
これらの書店に納入された「アパートニュース」はもともと売れ行きが好調でしたが、初春号からCM放送や中吊り広告を打って以降は発売3日ほどで売り切れが続出するのが当たり前になったのです。書店から「アパートニュース」の好調な販売状況を聞かされると、編集者としてうれしい限りでした。
本誌が売れるだけでなく、問い合わせや現地見学のアポイントメントも殺到しました。
掲載した物件はあっという間に入居が決まっていき、まさに入れ食い状態です。特に新築物件は早い者勝ちで発売日の朝から次々に電話が入り、発売翌日には全部埋まってしまいます。
東販と日販はいずれも自社の名古屋支社で納入を仕切っていましたが、2年後からは東京納入となりました。これは掲載地域が広がり、納入先が増えることを見越しての対応です。それに伴い年に3~4回定期的に東京の両社の雑誌課へ赴いて、各月や各シーズンの適正配本を打ち合わせするようになりました。名古屋の小さな不動産会社が東販や日販にとって大事な取引先の1つに昇格したことの証です。
待望の名鉄沿線売店での販売が実現
書店での売り切れ続出と時を同じくして、取次業者の中央社でも初春号より納入できるようになり、市内の書店網はほぼすべて網羅することができました。
さらに念願だった名鉄産業との取引が成立し、名鉄沿線の主要駅の売店で販売が開始となりました。私は駅ホーム売店で新聞やほかの雑誌類と一緒に並ぶ「アパートニュース」を見て、誇らしい気持ちでした。
やがて地下鉄や近鉄(近畿日本鉄道)沿線でも販売されるようになっていきますが、国鉄の鉄道弘済会(現キヨスク)への納入交渉だけはなかなかうまくいきませんでした。弘済会の売店組織網への私たちの会社のアプローチに対して、就職求人誌などの先発誌から抵抗があったためです。数万人が通る駅ホームの狭い売り場争いなので、他業種の雑誌の存在にも敏感にならざるを得ません。しかし私は諦めることなく販路拡大の営業を続けました。
結局、国鉄の弘済会への納入は創刊から5年を要しました。納入が決まったとき、弘済会から掛けられた「長い間、諦めずによく来訪してくれた」という言葉が心に響いたものです。
加治佐 健二
株式会社ニッショー 代表取締役社長