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チャーチルは「戦争を避けるために戦った」
チャーチルは戦争を待ち望んでいたわけでなく、殺戮を誇ったりもしなかった。1916年、塹壕から戻ってきたチャーチルは、想像を超えた戦争の恐ろしさを目にした後で、第一次世界大戦を題材にした詩人ウィルフレッド・オーウェンやジーグフリード・サスーンに対する冷ややかな嫌悪を滲ませて演説を行った。
チャーチルは、不潔きわまりない塹壕や乱雑に建てられた戦死者の墓を目にした。亡くなった兵士たちの寡婦に手紙を書くのが仕事の一つとなった。チャーチルはまた、刻一刻と規則正しいスピードで兵士たちが殺されていくのを目にした。「私たち国民が夕食を食べ、家路に就き、床に就く間、一体どんなことが戦場では起きているのでしょうか?」と議員たちに問いかけた。
「1000人もの男たち、イングランド、ブリテン島のわれらが同胞が叩きのめされて、血みどろのぼろきれのようになっているのです」
チャーチルはけっして新たな戦争を望んではいなかった。その悲惨さは十分経験していた。1919年、陸軍大臣のチャーチルは10年ルールを設けて軍事費を削減しようとした。欧州で今後10年間は戦争は起こらないという前提で、軍事費を設定するやり方である。
1920年代、財務大臣となったチャーチルは再び国防費削減運動を行ったが、このときは削減を決定する直接の権限を持っていた。1930年代後半になってもチェンバレン支持派はイギリスの軍備が不足しているのをチャーチルのせいにしていた。
1930年代末、チャーチルは当然ながら、拡大するドイツ空軍の規模に釣り合うようにイギリスの国防費を増やすよう、ほかの閣僚を急き立てていた。だが、チャーチルの態度が好戦的で、戦争のことばかり考えていたとはいえない。
チャーチルは未来の遺体安置所を垣間見た凶事の予言者、カサンドラの立場で話した。1938年、ドイツによるチェコ併合の引き金をひいたチェコ危機を巡ってイーデン外相が辞任後、チャーチルは眠れぬ夜を過ごした。
「夜明けの光が窓からゆっくりと入ってきた。死の幻影が眼前に迫ってくるようだった」
歴史家は第一次世界大戦の原因についていつまでも議論を続けるだろう。実際のところ、この最悪の出来事に対して完全に責任がないと主張できる国はないといっていい。ただ、チャーチルは原因をつくった一人ではないということはいえるだろう。戦争勃発の非は、それがすべてとはいえないまでも、実質的にはドイツ及びその軍国主義、拡大主義にあった。
1914年にサラエボでたとえ何が起きたとしても、ドイツ皇帝がベルギーやフランスを攻撃する理由にはならない。イギリスにとって過去500年の勢力均衡という外交政策のルールを踏襲するのが唯一の選択肢だった。つまり、大陸をどこか一つの国が支配することを防ぐことである。
第二次世界大戦はドイツの熱狂的な指導者で、復讐心にとりつかれた人物が引き起こしたものだといって差し支えないだろう。チャーチルとドイツ皇帝、あるいはチャーチルとヒトラーの道徳的側面における同質性を多少なりとも指摘するような論客は、事実にまったく反する指摘をしている。チャーチルは戦争を避けようとしたのである。戦争を避けるために戦ったのである。
チャーチルは戦争を避けるためだけではなく、戦争の人間への衝撃を最小限にする目的で、科学技術イノベーションを推進することにエネルギーを注いだ。チャーチルの最も興味深く魅力的な一面である。
戦争は多くを生み出す父となる。しかし、チャーチルの場合、苦しむ者への同情から多くを生み出した。
ボリス・ジョンソン
イギリス第77代首相 保守党党首
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