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「すべての戦争を終わらせるための戦争」
ギリシャの哲学者ヘラクレイトスによれば「戦争は万物の父」である。たしかに戦争はチャーチルを英雄にした。しかしチャーチル自身が戦争の父だったのだろうか? 一部でいわれるように、彼は猛烈な勢いで嬉々として、次から次へと戦争を戦ったのだろうか?
「すべての戦争を終わらせるための戦争」といわれた第一次世界大戦の終結時に時計の針を戻してみよう。1918年8月9日、史上最も恥ずべき戦争は、当時の人々が予想もしなかったような大殺戮の最終段階に入ろうとしていた。イギリスは海外派遣軍の600台の戦車を動員し、フランス北部アミアンで目がくらむほどの勝利を達成すると、有刺鉄線を通り向け、ぬかるみとずたずたになった死体を踏み越え、一日に八マイルもの距離を進行していた。数千人のドイツ人が殺害され、さらに数千人が捕虜になった。
チャーチルはこの時期しばしばそうだったように、この日もフランスにおり、ベルショク城に陣取っていた。表向きは軍需大臣として物資の分配を直々に監督するためだったが、実際には戦闘の中心から離れていることに耐えられなかったのである。
チャーチルは海外派遣軍の第四軍本部に向かって車を走らせるなか、5000人にものぼるドイツ軍兵士の横を通り過ぎた。彼らはショックで目もうつろになり、頭を垂れ、肌は爆弾のすすで黒ずんでいた。車が通り過ぎるとき、チャーチルは兵士たちの「惨めな様子には同情を禁じえなかった。戦闘の恐怖をやっとのことでくぐりぬけた後、休憩も食事も与えられることなく何マイルもの戦場を行進するなど気の毒なことだと思った」。
これは少々不自然な話である。イギリス軍の戦績は目覚ましいものだったが、1918年8月当時、勝利を決定的にするような材料は見当たらなかった。チャーチル自身も戦況は厳しいという見方をしており、早くても1919年以前には終わらないだろうと予想していた。ドイツ軍にはイギリス軍を破壊し続ける力があり、実際に最後の最後まで戦い続けたのである。
これほど多くの、敗北し、捕らえられた敵兵の姿を見て、チャーチルは高揚感でいっぱいになり、ドイツ兵がついに撤退したことへの強い喜びを感じたはずである。しかし逆にチャーチルはドイツ兵の惨めさに心を寄せた。連合国側の勝利は夜明け前の微光ではなかったことがだんだん明らかになってくる。ドイツ軍はこの戦争に負けようとしていた。チャーチルは凡百の政治家とは違い、そのことを見抜いていた。
チャーチルは徹底して報復という行為を嫌った。狭量な者に対しては寛容で、報復に対しては和平で応えようとした。1918年11月11日の午前11時、ドイツは休戦条約に署名した。当時ドイツは混乱状態にあった。皇帝は逃げ出し、インフルエンザが猛威を振るっていた。共産主義者による反乱が複数の都市を麻痺させていた。イギリスがドイツの港湾封鎖をしたこともあって、多くの国民が飢餓の一歩手前にあった。
11月のある夜、チャーチルはロンドンでF・E・スミス法務長官、ロイド・ジョージ首相などの友人たちとディナーを楽しんでいた。そこへドイツ国民が飢餓状態にあるというニュースが伝えられた。ロイド・ジョージはかつての敵の窮状など放っておけばよいという考えだったが、チャーチルは食料を積みこんだ12隻の船をすぐに送るべきだと言った。