ライト兄弟がいなくても飛行機は20世紀初頭に登場した
蒸気機関車といえばスチーブンソンの名が思い浮かぶように、動力飛行機といえばライト兄弟の名前がすぐに出てきます。しかしライト兄弟の飛行の成功にも、蒸気機関車の誕生と同様に、そこに至る長いプロセスと開発を後押しした社会的背景があったことはいうまでもありません。軽量で強力な部材やプロペラ、機体を思うように動かすための昇降舵や方向舵の仕組みの考案と実装ができなければ、ライト兄弟が飛ぶことはありませんでした。そうした周辺の技術が少しずつ成熟することによって初めて動力飛行機は日の目を見ました。
ここでも発明は一連のプロセスであって、その最後に登場したのがライト兄弟であったというのが歴史の語るところです。リドレーもこう書いています。
「要するにそれは数人が少しずつあれこれ研究し、試行錯誤した結果であって、一人の天才による想像力のめざましい飛躍ではなかった」
「(ライト兄弟の飛行の成功は)パタパタ動く大きな翼で空中に飛び上がろうとした変人たちの奇妙で命取りの試みで始まった、極めて長い進化の道における一歩だった。(中略)ライト兄弟がいなくても20世紀初頭の10年間のうちに、誰かが飛行機を空に飛ばせたことは間違いない。モーターが開発されたおかげで当時多くの人々が試すことは必然であり、実際に必要だったのは試行錯誤だけである」
(いずれも『人類とイノベーション:世界は「自由」と「失敗」で進化する』太田直子訳 NewsPicksパブリッシング)
ジョブズがいなくても「iPhone的な道具」は誕生した
イノベーションが一人の発明ではなく長い歴史を辿るプロセスであることを物語る事実は、機関車や飛行機という物理の世界だけでなく医学の世界でもみられることです。
今コロナ禍を脱するための切り札として世界で活用されているワクチンは、明らかに医学上のイノベーションの一つです。しかしこのワクチンもそれを最初に天然痘に対して用いたといわれるのは18世紀の半ばのことで、この時はまだ、なぜそれが機能するかについての科学的な解明は行われていませんでした。
毒を弱めて体内に入れるとその毒に対する耐性が生まれるという経験則だけがあり、勇気を奮った試行錯誤が積み重ねられていったのです。なぜワクチン接種が効果を発揮するのか、人間の免疫機能との関係でルイ・パスツールが合理的な説明を行ったのは、それから100年以上も後の19世紀末のことでした。
アレクサンダー・フレミングがペニシリンを発見したのも医学の実験が少しずつ進展し、携わる科学者が増加するなかでの偶然でした。さらにその発見が実用的な治療薬になり有効なイノベーションになるまでには、大量生産や保存に関するさまざまな問題が解決されなければなりませんでした。そのために20年以上といわれる歳月が必要だったのです。
パスツールがワクチンの父であり、ペニシリンはフレミングの発明だと一言で片付けられるような事実は存在しません。そのような発明物語にした途端に、イノベーションの実際の姿は見えなくなってしまいます。
■イノベーションとは、試行錯誤による淡々とした連続的な「進化」である
イノベーションがばらばらに進む複数の試行錯誤の成果であることはなにも、世紀や20世紀の工業化時代の発明に限ったことではありません。
アップルのiPhoneや任天堂のゲーム、メタ(旧フェイスブック)のSNSサービス、グーグルの検索エンジンなど、デジタル時代を象徴するさまざまな発明も同じです。これらも、一人の天才のひらめきや超人的な能力によってある日突然誕生したものではありません。仮にアップルを築いたスティーブ・ジョブズやメタのマーク・ザッカーバーグがいなくても、同じ頃に同様のツールは出現していたはずです。
イノベーションは革命でも創造的破壊でもありません。そのような劇的なものではなく、試行錯誤による淡々とした連続的な進化です。それは素朴にイメージされてきたようなレボリューション(革命:revolution)ではなくエボリューション(進化:evolution)なのです。
太田 裕朗
早稲田大学ベンチャーズ 共同代表
山本 哲也
早稲田大学ベンチャーズ 共同代表