【本当は怖い京ことば】まさに勝者の余裕…厚かましい依頼を一蹴した、痛撃のひと言

「京ことばには、耳に流れてくる優雅さには似合わない〈毒舌針〉が仕込まれている――」京都在住60年、巧妙かつ恐ろしい言語戦略と、はんなり優雅な物腰が同居する「京都ジン」を見聞きし、体験してきた文筆家の大淵幸治氏が、本格的「京ことば」について解説します。本記事は「堪忍しとくれやっしゃ」「ボチボチでんなぁ」の意味を探ります。

【堪忍=かんにん=しとくれやっしゃ】

京都ジンの気遣いDNAは、あらゆるところに浸透していて、遠慮深いというのもそのひとつの現れとなっている。頼みごとひとつするのにも否定疑問文を用い、一種独特のクッションを置いた喋り方に徹するのも、控えめな精神が邪魔をするからだ。

 

だが、京都ジンにあってのそれは、むしろ尊大さのそれに近い。というのも、京都ジンの控えめな素振りというのは、さきにも見たように自信に裏打ちされた尊大さの現れである場合が往々にしてあるからだ。

 

ひとにモノを頼むのに遠慮を感じるのは、ある意味で自然である。

 

だが、京都ジンは頼みごとを断る場合にも、遠慮がちなモノいいをする。そんなときに出てくるのが、表題の「堪忍しとくれやっしゃ」である。

 

字面だけをみると、話者はなにか悪いことをして、許してほしい――と謝っているようにみえる。

 

だが、当人は悪いとは思っていない。

 

それどころか、謝らねばならないのは聞き手のほうである場合もある。頼まれごとの内容が無理難題であった場合でも、京都ジンは穏やかにゆったりと「すんまへんなぁ、力になれんで。堪忍しとくれやっしゃ」と頭を下げるのである。

 

先祖代々、数百年にわたって骨肉化してきた京都ジンの言語DNAは、単刀直入にモノをいって逆恨みされる危険性を極力避けてきた。断るにせよ、頼み込むにせよ、つねに相手を傷つけることのない表現に洗練させてきたのである。

 

…頼まんならんほど困ってしまへん

 

わたしはそれを京都ジンの言語生理による「マナー・ロンダリング」と呼んでいるが、まさに京都ジンは、その言語生理感でもって自らのマナーを清浄化(ロンダリング)し、家族を養ってきたのである。

 

その昔、とはいっても、ほんの数年前のことだが、ある老舗に勇を鼓して広告協賛のお願いに伺ったことがあった。そこは、閉店前もあってか、大層にいえば立錐の余地もないくらい観光客らしい老若男女がひしめきあっていた。

 

しばらく経って応対に出てくれた広報担当者である番頭さんの返事は、うちは広告さしてもらわんでもこのとおり、客がきまんにゃ。せっかくきてくれはったのに、えらい愛想なしですまんこってしたなぁ。堪忍しとくれやっしゃ――であった。

 

こういわれると、自らの小ささと厚かましさに恐縮して早々に引き下がらざるを得ない。相手は、放っておいても客の絶えない超弩級老舗なのである。

 

カネがないから広告をしないのではない。頼んでまで来てもらわなくてはならないのなら、初めからそんな商売はしていない。カネがあり余っていても、客がくるかぎり、そんな無駄使いは一切しないのが京都ジンの知恵であり、始末精神なのだ。

 

まさに勝者の余裕――。そんな矜持と自信のほどを感じさせた番頭さんの応対ぶりであった。子はいつまで経っても親の前では子であるように、やはり新参者は、いつまで経っても新参者にすぎない。あだやおろそかに、その謙虚さに惑わされてはならない。侮られているのはこちらのほうなのだから……。

 

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富山の山奥に産し、京は西陣の上七軒にて生長。立命館大文卒。コピーライターや編集者としての経験をもとに80年代後半から唱え始めた〈意匠ことば学〉の見地から京都ジンの言語生理を読み解く。京に住いすること半世紀以上に及ぶ「非」京都人としてユニークな京都人論、京ことば論を唱える。2000年に上梓された『丁寧なほどおそろしい「京ことば」の人間関係学』は京都本ブームの先駆けとなった。

著書に『国彩化時代のニホンゴ』『気の弱いひとのエーゴ』『京都文化ジン類学』『ハダカの京都解体新書』などがある。

著者紹介

連載「おうち、面白いひとどすな」本当は怖い、京ことば

※本記事は、大淵幸治氏の著書『本当は怖い 京ことば』(リベラル社)より一部を抜粋・再編集したものです。

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