信頼を勝ち得た「短納期・試作品」生産の高度化
■天皇陛下が視察した町工場の試み
この経営手法に近似していながら、さらにひと味変わったアプローチで脱下請け、経営者自身の言葉で言えば「脱下請け体質」化を図っているのが、2018年に当時の天皇陛下(現・上皇)が視察に訪れたことでも話題を呼んだ、東京・墨田区に本社・工場を置く浜野製作所だ。記者はこのユニークな会社に初めて訪れてから、すでに10年以上が経過する。
同社は1968年、現社長の浜野慶一氏の父親が金属金型工場として創業した。東海大学を卒業、すでに就職先も決まっていた浜野氏だが、父親の勧めもあり板橋区の板金工場に修業を兼ねて勤めることにした。だが9年目に父親が急死、93年に修業を切り上げ、工場を継ぐことになる。ところが2000年、運悪く近隣の火災のもらい火で工場が全焼。この時点での浜野製作所は金型製造に加え、金型を用いたプレス加工による量産部品製造も行っていたが、格別、特徴のある町工場というわけではなかった。
工場が全焼すると、浜野氏は何はともあれ焼け跡から金型を掘り出すと、すぐ近所に工場、設備を借りて、不眠不休で注文をこなし納品した。
「浜野はきちんと約束を守る」と会社の信用は高まったが、新たな注文がもらえたわけではなかった。「飛び込みで、あちこちに注文を取りに走り回ったが、反応は全くといっていいほどなかった。で、知り合いに頼って紹介してもらうことにした」
紹介だから相手はとりあえず会ってくれたが、やはり注文は出てこない。何度も尋ねると、そのうち居留守を使われるまでになった。そこで今度は夜討ち朝駆けの手に出た。やがて根負けした相手が、「1回限りの試作品。納期は2週間だがやるか」と言ってきた。喜んでまでやる仕事ではなかったが、とにかく突破口を開くことが大事だということで、二つ返事で引き受けた。のみならず、2週間のところを1週間で仕上げて納品した。
そうしたことを何度か繰り返しているうちに信頼を勝ち得、事務所に入れてもらえるようになり、次にはコーヒーも出してくれるようにもなった。そして量産品の注文も出してくれるようになった。
しかしそれだけだったら、浜野製作所はよくある商売熱心な下町の下請け部品工場にとどまっていただろう。浜野氏は東京という大企業の研究所、大学などが集中する特殊な市場で自社の特徴を出せないかと考え、「短納期・試作品」生産のいっそうの高度化を目指す。
そのために生産設備の高度化、生産システムの整備、社員の技術力向上に努めた。短納期を徹底するために、電話を取る事務の女性にも技術の基礎知識を覚えさせたほどだ。現場の社員の技術力を上げるために、資格取得を勧めたのはもとよりである。やがてものづくりの盛んな墨田区でも、浜野製作所の技術力が一目置かれるようになっていった。
そんな折、早稲田大学と墨田区、区内の中小企業による産官学連携事業がスタート、09年、電気自動車「HOKUSAI」プロジェクトが生まれる。浜野製作所はその中心メンバーとして参加。その後、東大阪での小型人工衛星「まいど1号」開発に刺激され、産官学連携で海洋研究開発機構の後押しを得て近隣の中小企業者と深海探査艇「江戸っ子1号」の開発に取り組み、8000メートル近い深海探査を成功させる。浜野製作所は探査船では位置情報のGPSと探査船本体の開発を主として担当した。
もっとも浜野氏によると、この2つのプロジェクトに参加したことで、浜野製作所と墨田区近隣の基盤技術を持つ工場との連携意識が高まるとともに、社員の技術向上意欲はさらに向上し、浜野製作所の技術、特に溶接技術の確かさへの評価も高まったが、そのことがすぐに新しいビジネスにつながったわけではないという。そんな折、一人の若者が浜野氏のところへ訪ねてきた。
「ロボットを開発したい。概念図もソフトウエアもあるが、要素部品が作れない。手伝ってほしい」というのだ。それがこのところ、分身コミュニケーションロボットとして話題の「OriHime(オリヒメ)」を開発したオリィ研究所の吉藤健太朗氏。当時まだ早稲田大学の学生だった。
「OriHimeの開発を手伝ったことが、一つの転機となった。浜野製作所へ行けば、自分たちのアイデアを製品化してくれるかもしれないと、多くのベンチャーの人たちが考え、次々とやってくるようになったのです。しかし、そのすべてにとてもじゃないが対応できないので、ベンチャーキャピタルと連携してビジネスプランコンテストを開き、入賞したプランを応援することにしたのです」
一方で、墨田区が建設、浜野製作所が運営する「ガレージスミダ」というものづくり支援施設を同社の敷地内に設置する。入居者1号となったのが、上記ビジネスプランコンテスト1位入賞者で、台風でも発電できる風力発電機を開発中のチャレナジーである。チャレナジーの創業者、清水敦史氏は東京大学を出て、関西の有力電子部品メーカーに勤めたが、ここでは自分がやりたいことを実現できないと独立、起業したのである。チャレナジーを含め、これまで浜野製作所が支援するベンチャーは100社を超えている。
「各ベンチャーの開発支援、機器生産については、応分の経費をいただいている。また従来、取引のなかった大手企業からも、こういうものが作れないかという注文がかなり増えている。結果、ここ6~7年は売り上げが年率20%を超えて伸びています。一部自社製品も出し始めており、それを含めて部品加工以外の売り上げが増えてきており、残り60%の部品加工も、価格についての主導権はほぼ当社が握るようになってきています」
さらに浜野氏はこう付け加えた。「下請けは誇りある仕事だと私は考えており、問題は自社の技術や技能に自信を持つことなく、発注先の言うがままという体質に安住していることだと考えています」
下町の町工場主の自負であろう。