中小企業家同友会はどんな団体なのか
その同志の数がバブル後の一時的停滞から脱して2009年から9年連続で増加し、しかも中同協設立50周年の節目を迎える19年には大台5万名の会員をほぼ確実に迎え入れようというところまで来た。中山氏の述べた数字から、彼ら会員は自分たちが展開してきた活動や理念にあらためて確信を抱くとともに、さらなる同志の獲得、会勢の一段の拡大に強い意欲を掻き立たせたに違いないのである。
一種の精神的高揚のためのアドバルーンに近いにしても、「もっといい国にするために誇りと確信をもって仲間を増やそう」「対企業組織率を10%に」という中山氏の前向きな言葉は中同協50年の歴史と同友会の今後、果たさなければならない使命を再認識させるに十分なものだったに違いない。
2日間にわたる仙台での同友会定時総会はそうした点を含めて大いに盛り上がったのだが、前日は半日をかけて16の分科会で会員たちが熱心に討議した点を含め、同友会の大会は一般的な中小企業経営者の団体の大会とは大いに異なり、ある種の思想や理念を共有し、それに基づいてつくられた運動方針で加盟者全員が動く、例えば宗教団体や政治団体、あるいは労働組合のそれに類似しているかのような印象を、部外者としては受けないわけではなかった。
同友会を「理念的」と捉える見方があることを紹介したが、多分にそうした点から来ているのだろう。
そうは言うものの、同友会は誕生のときから、一人の人間、一つの党派、一つの思想やイデオロギーに支配されることを拒絶してきたし、そうした体質を遺伝的に今日までしっかり受け継いできた。
例えば、同友会運動の主体は都道府県単位で設立された同友会であり、中同協は中央にあってそれらをリードする団体ではなく、あくまでも各同友会が集まり協議するための組織にとどまる。つまり一人の人間、一つのイデオロギーが全国の同友会をまとめ上げ、引きずり回すことはまず不可能な体制になっているのだ。理念的にも、長い論議の末に定式化された「自主・民主(のちに連帯の精神が加えられた)」という理念が大事にされているように、民主的であることが強く主張され、制度的にも、理念的にも独裁的で独善的組織とならないようしっかりと歯止めがかかっているのである。
中山氏は、挨拶の最後を以下のような言葉で締めくくった。
「(民間企業の)70%を占める中小企業で働く労働者が生き生きと働き、豊かな暮らしをしていくには、われわれ同友会が頑張るしかありません。そのためにも、この運動を共にする仲間をさらに増やし、全体の中小企業家のレベルを上げていくことが大切です」
中山氏の目、というより同友会の目は、現在の会員にとどまらず常にすべての中小企業、なかんずく経営を担うすべての中小企業“家”に向けられており、自らの原則を大事にしながらも開かれた組織を目指していることがわかる。ここでも、独裁的で独善的組織とならないような歯止めがかかっているのだと言ってよい。
■同友会運動の誕生前史
いささか遅れたが、本稿では以下、この極めて特徴的な中小企業家集団、同友会運動の誕生前史からはじめて、その歴史と主要な理念がいかにして生まれ、現代に至っているのか、まさに「50年の先人」の動きを順次記していきたいと思う。そのうえでなぜ、この同友会が、時代の趨勢に反して着実に会員数を伸ばしているのかを見ていきたい。
わが国の多くの経済団体がそうであるように、中同協の誕生も戦後、それも2019年が設立50周年ということでもわかるように、他の経済団体よりかなり遅く、前回の東京オリンピックの5年後である1969年、つまり高度経済成長政策の下で日本経済が矛盾を孕みながらも急速に再加速を続けていた頃である。
ただし前史があり、前身とされる全日本中小工業協議会(全中協)の誕生は、そこからさかのぼること20年余の47年である。『中同協30年史 時代を創る企業家たちの歩み』(中小企業家同友会全国協議会)から全中協の設立後の動きを抜き書きすると、こうなる。
「敗戦後中小企業が(財閥解体などにより)日本経済の中核的存在」と見なされることになるのだが、中核であるためには「自らの足でもって立派に立ち得る」ことが必要である。そうした考えの下で「経営の協同化と団結によって」、中小企業が「真に経済再建の母体的実力を名実ともに身につけよう」ということで、「自立的に結成された」のが全中協だという。政府や官僚が推進した、官製のものではないのである。もちろん政府等から財政援助を受けない。自立とか、団結とかの遺伝子は、このあたりが萌芽と言えるだろう。
しかしこうした自主・自立的な中小企業の地位向上運動は、まず朝鮮戦争による特需を契機にした日本の経済復興で頓挫する。中小企業は「下請け制、流通系列化など大企業と直結した形で再編成」される一方、「輸出推進のなかで各地に輸出型地場産業が形成」されていく。要するに、今日に至る日本経済の二重構造が構築されていくのである。
そうした中で、旧日産コンツェルンの総帥であった鮎川義介氏が主導する中小企業政治連盟(中政連)が急速に台頭してくる。最終的に中政連運動は彼らが推進しようとした「中小企業団体組織法」が必ずしも中小企業を強化する方向に向かわないことが明らかになる一方、鮎川氏の次男が大掛かりな選挙違反事件を起こし、結果、鮎川氏も政界から身を引かざるをえなくなったことから、急激に運動としての力を失っていく。