(※写真はイメージです/PIXTA)

小児科医である大宜見義夫氏は、「あるがままを受け入れられ、自己の存在価値を見出し得たとき、人は一変する」と語ります。同氏が診察した、一人の少女の事例を見ていきましょう。

「学習意欲は高く、将来に夢を託し頑張っております」

通常学級に戻ってからA子の激しい症状はウソのように和らいでいった。学習は順調に進み、学業成績も上がり始めた。復帰してまもなく、A子は社会科のグループ学習でパソコンのパワーポイントを使いこなした発表を行い、クラス仲間から喝采を浴びた。

 

A子は得意のパソコンを活かせる工業高校をめざし、懸命に勉強に取り組んだ。中学三年の一月、電子情報システムのある工業高校を受験目標と定め、診断書を提出した。添付の診断書には自閉スペクトラム症の診断名をつけ、下記の一文を書き添えた。

 

「……中三の夏休み明けからは、高校受験を強く意識、自ら普通学級に戻る決断をし、実行しています。心ないクラス仲間から変な服を着せられて写真を撮られ、それをラインで拡散されるなどとからかわれたこともあったものの学校側の対応で乗り越えることができました。中三の十月頃からは、体力が回復、登校も安定しています。小学校時代から、ほとんど学校へ行けない状況にありながら、独学で勉強し学力を維持しています。学習意欲は高く、将来に夢を託し頑張っております……」

 

A子は無事志望校の電子システム科に合格した。中位の成績だったという。面接でいじめの件も聞かれたという。

 

彼女は、高校では演劇部に入りたいと夢を語った。幼少期から独り言が多く、七人のメンタルフレンドと交わすやりとりが演劇への夢を育んだのかもしれない。

 

不思議なことに、高校に入ってから身体症状は全くなくなった。前年夏の地獄のような苦しみがウソのようだった。高校生活が充実するにつれ、メンタルフレンドも七人から、夏休み前には三人にまで減っていた。

 

小学校時代は果たせなかった体育の授業にも全て参加できるようになった。男子生徒に混じってバスケットボールやドッジボールをできるようになった。水泳で二〇〇mを泳ぎ切ることもできた。

 

高一初夏、驚嘆すべき出来事があった。ITパスポートという難関のパソコンの国家試験に一発合格を果たしたのだ。一年生での合格者は開校以来とあって、学校側も驚いた。同じ高一の夏、県内高等学校の意見発表会では学校代表に選ばれ優良賞に輝いた。

 

今は、仲間らとロボットのプログラミングに取り組んでいる。幼少期、親やまわりとのコミュニケーションがうまく取れず、そのストレスから下痢や嘔吐や感染症を繰り返し、喘息や肺炎で入退院を反復し、小中学校の大半を休み、車椅子で通ったこともあるA子は高校入学を契機に一変した。

 

あるがままを受け入れられ、自己の存在価値を見出し得たとき、人は一変することをあらためて知った。彼女は今、「将来は体が不自由な子たちでも遊べるようなゲームソフトをつくりたい」と夢を語っている。

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大宜見義夫(おおぎみ よしお)

 

1939年9月 沖縄県那覇市で生まれる
1964年 名古屋大学医学部卒業
北海道大学医学部大学院に進み小児科学を専攻
1987年 県立南部病院勤務を経ておおぎみクリニックを開設
2010年 おおぎみクリニックを閉院
現在 医療法人八重瀬会同仁病院にて非常勤勤務
医学博士
日本小児科学会専門医 日本心身医学会認定 小児診療「小児科」専門医
日本東洋医学会専門医 日本小児心身医学会認定医
子どものこころ専門医
沖縄エッセイストクラブ会員
著書:「シルクロード爆走記」(朝日新聞社、1976年)
「こどもたちのカルテ」(メディサイエンス社、1985年。同年沖縄タイムス出版文化賞受賞)
「耳ぶくろ ’83年版ベスト・エッセイ集」(日本エッセイスト・クラブ編、文藝春秋、1983年「野次馬人門」が収載)

※本記事は幻冬舎ゴールドライフオンラインの連載の書籍『爆走小児科医の人生雑記帳』(幻冬舎MC)より一部を抜粋したものです。最新の法令等には対応していない場合がございますので、あらかじめご了承ください。
※「障害」を医学用語としてとらえ、漢字表記としています。

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