「『お母さん、お母さん』と言って亡くなったよ」…元従軍看護婦の悲しい証言 (※画像はイメージです/PIXTA)

医師や看護師など、多くの医療従事者たちが、過酷な環境にさらされるのは今も昔も変わりは無く、日中・太平洋戦争では兵士と同様、医療従事者にも多くの犠牲者が出た。そこで、今回は祖国に帰ることなく、異国の土となった「従軍看護婦」に焦点を当ててみたい。

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不衛生だと分かっていながらも…

1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で偶発的に発生した銃撃事件により、日本は先の見えない泥沼の戦争に突入した。緒戦は優勢だったものの、国土が広大なために「点(主要都市)」と「線(鉄道と道路)」を支配できても、「面(広大な土地)」を掌握できなかった中国大陸では、人員や物資の補給がままならず、負傷兵が増えた。さらに戦場が東南アジアや環太平洋地域へと拡大するなかで、彼らの治療のために多くの医師や看護師が必要となっていった。

 

こうしたなか、特に激戦地となったフィリピン戦線とビルマ戦線には、特に多くの「従軍看護婦」が割り当てられた。彼女らは軍医とともに、次々と運び込まれる重症者の治療にあたったが、その様子は現在も日本赤十字本社に保存されている業務報告書に見ることができる。

 

1944年に入って、日本軍が東南アジア地域における制海権・制空権を喪失し、輸送路が断たれると、武器弾薬・食料のほか、治療に必要な医療物資が欠乏するようになった。特に重症者の治療に必要なガーゼや包帯は十分な数が入らず、不衛生な状況だと分かっていながらも、全数を洗って再利用するという状況に追い込まれた。しかも看護師の補充が追いつかないため、その役割は患者のなかでも比較的動けた、療養中の軽症者が担っていたことが、その業務報告書からも分かる。

伝染病も蔓延する劣悪な環境

フィリピンでは10月20日にアメリカ軍がルソン島に上陸し、マニラでも米軍の空襲が激しくなると、市内にあった陸軍病院は攻撃を避けるために、患者を連れて山間部へ移動した。マニラ近郊のヴィクヴィッチ金山の廃坑に野戦病院が一時置かれ、治療が継続されることになった。筆者も実際に歩いてみて分かったが、ここは真っ暗でジメジメしているため、すぐに身体は汗だくとなり、長時間滞在することは難しい。

 

この環境は、重症者の身体に大きな負担となり、十分な治療を施せないまま、傷口がガス壊疽になって、大概は患部を切断をしなければいけないという状況に繋がった。しかも高温多湿なフィリピンでは破傷風・チフス・赤痢などの伝染病も蔓延していた。しかし、治療にあたる軍医や看護師が不足しているため、ただただ亡くなっていくのを見守るしかなかったという。


死亡者数は日に日に増加し、看護師の業務に遺体の処理が含まれるようになった。若い女性が2人でトロッコに遺体を乗せて運ぶなどの重労働は、看護業務にも支障をきたしたのである。

ジャーナリスト

1977年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒業後、民間企業勤務を経て、上智大学大学院史学専攻博士後期課程満期退学。研究領域は、満洲事変から太平洋戦争に至るまでの日中政治外交史で、同時期の鉄道史を中心に、戦争の裏側を探る。雑誌や書籍等に提供してきた鉄道写真はおよそ2,000枚に及ぶ。4歳の頃からヴァイオリンを始め、広瀬悦子先生に師事。音楽理論に精通し、クラシック音楽評論家としての一面も。特にモーツァルトに造詣が深い。

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