(※画像はイメージです/PIXTA)

医師や看護師など、多くの医療従事者たちが、過酷な環境にさらされるのは今も昔も変わりは無く、日中・太平洋戦争では兵士と同様、医療従事者にも多くの犠牲者が出た。そこで、今回は祖国に帰ることなく、異国の土となった「従軍看護婦」に焦点を当ててみたい。

最後に白ごはんや卵を食べさせ…

その後、米軍の攻撃が山間部にもおよび、また抗日ゲリラの襲撃が激しくなると、軍医や「従軍看護婦」らは金山の廃坑にあった野戦病院を放棄して、患者を連れて山中をさまよい始めた。重症者は次第と「足手まとい」となり、攻撃を避けるために昼間は身を潜め、夜間のみの行動しかできなくなると、「命の選別」が行なわれた。軍医の命令で、命を救うことを教育されてきた看護師らの手によって、重症者は青酸カリ入りの牛乳を飲ませる、静脈へ空気注射する、などして安楽死させられたのである。

 

さらに、灼熱の山中をさまようなかで水不足が深刻となり、喉の渇きを潤そうと沢の水を飲んだ「従軍看護婦」のなかにも、腸チフスや腹膜炎に罹る者が現れた。歩けなくなり、逃避行を続けることが難しくなった彼女らを、上司にあたる婦長が最後に白いご飯や卵を食べさせ、モルヒネを注射し、安楽死させたのである。その光景を目の当たりにした同僚の看護師は涙を流しながら、穴を掘って犠牲になった仲間を埋葬したという。

自らが手を下した、その苦悩

戦後、日本へ無事に帰って来ることのできた仲間の看護師らは、自らが直接手を下したことに、長い間苦しめられ、家族にさえ口を開くことはなかった。だが、当時若かった生存者が90代となった今、ようやく「あの世へ行く前に戦争体験を語り継ぐことが、亡くなった仲間に対する供養。長生きできたことにも感謝しなければなりません」と話すようになった。彼女らは「あれは、悲しかったよね。もう連れて逃げられないもの。最後に『お母さん、お母さん』と言って亡くなったよ」と証言し始めたのである。

 

残された資料によると、彼女ら「従軍看護婦」は、日本赤十字出身者だけでも960班、延べ人数33156人におよび、そのうち負傷者は4689人、再び日本の土を踏むことができなかった殉職救護員は1143人に達したことが判明している。しかし、その数字には陸軍・海軍の応召看護婦や「ひめゆり学徒隊」などの女学生などは含まれておらず、正確な記録は残されていない。

 

「従軍看護婦」が患者とともに逃避行を続けた金山の廃坑や山中を歩いていると、今でも使用済みの注射瓶など、古びた医療器具を見つけることがあるという。
 

 

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