脳の処理能力を奪う「貧困のスパイラル」
■ソーシャルイノベーションを成功させる最低条件
高原社会においてソーシャルイノベーションを力強く推進していくためには、一も二もなく、とにかく「取り組みの絶対量」を増やしていくしかありません。つまり、できるだけ多くの人が、それぞれの衝動に基づいて、さまざまな社会課題にチャレンジすることが必要だ、ということなのですが、ここに一つの課題が浮上してくることになります。
それは、このような取り組みの結果として路頭に迷い、生活を破綻させてしまうような不安が拭えない状況では、取り組みの絶対量を増やしていくことは難しいだろう、ということです。各種の統計が示す通り、日本人は全般にリスク回避傾向が相対的に高いらしいということもわかっていますので、この課題をクリアしない限り、取り組みの絶対量を飛躍的に増やすことは難しいと思われます。
自分の生活が破綻してしまうかもしれない、という切実な懸念を抱えているような状況にある人が、ソーシャルイノベーションのための素晴らしいアイデアを次々に生み出せるとは考えられません。金銭に関する悩みは脳の処理能力をものすごく食うので、一度、経済的な心配が必要な状況になってしまうと、なかなかそこから脱することができません。いわゆる「貧困のスパイラル」に絡めとられてしまうわけです。
19世紀、パックスブリタニカの最盛期にあったヴィクトリア朝時代のイギリスを代表する思想家・美術批評家のジョン・ラスキンは、社会における芸術の創出と経済の問題について当時から深い考察を行い、次のような問題を指摘しています。
<現今ではどんな画家にしても独創的天分を有すれば有するほど、若い日々にきっと苦闘するであろうという公算が増大するので、その思想が豊富にして鮮やかであるべき時、その気分が温和でその希望が情熱的であるべき時、すなわちもっとも決定的な時期に、彼の心は心配ごとと家庭内の苦労の種で一杯に満たされ、彼の情熱は失望の度に冷まされ、不当な待遇に苛立ち、自己の長所だけでなく、短所にも頑なに固執するようになって、彼の確信という葦が折れる時には、彼の志という矢は鈍ってしまうのである。>
ジョン・ラスキン『芸術経済論』
ラスキンは数多くの才能ある若者が、経済的不安によって芸術家としてのキャリアを諦め、インストルメンタルな職業に絡めとられていくことに心を痛めていました。高原社会において、私たちの価値創出活動を「文明」から「文化」へと切り替えていくことを考えた時、このラスキンの指摘はあらためて深く考察すべきものだと、私は思います。
山口周
ライプニッツ 代表