UBIの導入の是非を古い価値基準で評価
■「資本主義をハックする」と言っている意味
人間は長い進化の過程のなかで「感情」という機能を獲得したと考えられます。なぜなら、もし「感情」が、個体の生存・繁殖に有利に働かないのであれば、そのような機能を私たちの脳が獲得するはずがないからです。自然はそんな贅沢を許しません。
私たち人間が「感情」という機能を獲得したのは、これが生存と繁殖に必須だったからです。これを逆に表現すればつまり、感情を押し殺すようにしてインストルメンタルな生き様を志向することは、むしろ生物個体としての生存能力・戦闘能力を毀損することになる、ということです。生きがいも楽しさも感じられない仕事に、給料が高いからという理由だけで携わっているのは、本質的に生命としてのバイタリティを喪失することになるのです。
さらに加えて指摘すれば、そのようなインストルメンタルな労働観をもつ人によって、不健全な仕事が労働市場から排除されずに残ってしまうという問題もあります。もし私たちが、自分の本来の感情、幸福感受性に根ざして仕事を選ぶことができれば、私たちの幸福に貢献しない仕事や活動は、社会から消えていくことになります。なぜなら、私たちの社会には市場原理が働くからです。ここに、私が「資本主義をハックする」と言っている意味があります。
UBI(ユニバーサル・ベーシック・インカム)の考え方はかつての社会主義と近接していることから、これを「資本主義の否定」と捉える向きもありますが、本当の狙いは真逆で、むしろ労働市場に市場原理をより徹底的に働かせるためにこそUBIの導入が必要だ、というのが私の考えであることを強調しておきます。
■「より良く生きるとはどういうことか?」という問い
UBIの導入については現在、さまざまなところで議論されていますが、率直に言って強い違和感を覚えることが少なくありません。なぜなら、それらの議論のほとんどにおいて、UBIの導入の是非が、「経済成長」や「生産性向上」等、近代化終了以前の「古い価値尺度」によって評価されているからです。
私たちはすでに近代化を推し進めていた「登山の社会」から、近代化を終了した「高原の社会」へと移行しているのですから、こういった「登山の社会の古い尺度」をもち出して、「高原の社会の仕組み」を議論しても仕方がないだろうと思うのです。
ここで問われなければならないのは、経済成長や生産性への貢献ではなく、そもそも「人間にとって、生きるに値するいい社会とは、どのような社会なのか?」という問いであるべきです。
新約聖書の『マタイによる福音書20』では、イエスが「天の国とはどのようなものか」というたとえ話をします。
ぶどう園の主人が朝、広場に出かけて日雇い労働者を「1日1デナリオン」という約束で雇います。やがて日が暮れ、ふたたび主人が広場に出かけてみると、そこで一日何もしていない人を見つけ、「ここで何をしているのですか?」と主人が聞くと、この人たちは「仕事にあぶれてしまったのです」と答えます。
そこで主人は彼らに「あなた方もぶどう園に行って働きなさい」とすすめます。さて1日が終わり、主人は、「朝から働いた人にも、夕方から働いた人にも、等しく1デナリオンの賃金を払いなさい」と命じ、まず夕方から働いた人に1デナリオンの報酬を支払います。これを見て、朝から働いた人々は「一日中、太陽の下で頑張った私たちの報酬はなぜ同じなのか」と詰め寄ります。いかにも真っ当な不平に思えますが、これに対して主人は次のように返します。
<わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。>
『マタイによる福音書』20.13