維新政府の官僚になるものの…信念のため民間に転身
1868(明治元)年、渋沢さんは日本に戻ってきました。フランスの地にいる間に、約270年にわたって続いた徳川幕府の時代は終わり、「明治」という新しい時代が幕を開けていました。
帰国するとすぐに、静岡県に謹慎していた主である徳川慶喜に面会し、渋沢さんはそのまま静岡に留まることを決めます。フランスで学んできた株式会社制度を実践して、静岡県の財政を助けることにしたのです。
渋沢さんが静岡で「商法会所」を設立したのは、翌1869(明治2)年1月のことでした。明治新政府が静岡藩に貸し付けた資金を資本金とした合本組織(株式会社)で、貸付や卸業を行うなど、事業をスタートさせました。
ちょうどその頃、新撰組の元副長の土方歳三は、箱館の「五稜郭の戦い」で、最後の戦をしようとしていました。同じ日本の中で、過去にこだわり戦う者たちと、新しい時代を見据えて闘う者たち。この両者の相克は、僕を哀愁に満ちた世界に誘います。
さて、話を元に戻すと、この事業が軌道に乗ってきた10月、渋沢さんは明治新政府から民部省(のちの大蔵省、現在の財務省)に入省するよう要請されます。フランスでの海外経験と、資金勘定の腕を評価されての抜擢でした。
当初は徳川慶喜への忠義もあり、事業もこれからというときだったので、渋沢さんは新政府で働くことに難色を示したそうです。それを説得したのが大蔵大輔(現在の財務大臣)だった大隈重信でした。「君は国家のために尽くすべきだ」と説かれた渋沢さんは、「それならば」と新政府で働くことを決意します。
民部省では、租税正と改正掛長を兼務することになりました。改革の企画立案を行い、度量衡の制定、租税改革、国立銀行条例制定、貨幣制度や金融制度の整備、鉄道敷設、さらには富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わるなど、幅広い仕事に携わりました。
しかし、大蔵卿となった大久保利通は、富国強兵を推し進めるために、軍事費の歳出を強く求めるようになりました。それに納得がいかなかった渋沢さんと上司の井上馨は、大久保利通と対立を深めていきます。
結局、渋沢さんは井上馨とともに、新政府を去る決断をします。1873(明治6)年、自ら官職を辞し、民間に転じることにしたのです。
渋沢さん、33歳の一大決心でした。
せっかく新政府の官僚として評価される活躍をしていたのに、あっさり辞めてしまうなんて、僕には少しもったいない気がしてしまいます。当時も、名誉な官職を自ら捨てるというのは、前代未聞だったようです。
でも、渋沢さんには曲げられない信念がありました。もっと社会に役立つために民間で仕事をしようと思ったのだと想像できます。