「ここ何屋なの?」店頭のお客の会話に愕然
そのためか、息子である僕に「家業を継いでほしい」とは一切口にしませんでした。僕自身も家業にまったく興味がなく、「いつか継がなきゃいけないのかな……」とうっすら思いながらも、ずっと逃げていました。
これまで僕は、母の泣き言を一度も聞いた記憶がありません。しかし、目の前にある背中はとても苦しんでいるように見えたのです。
「……飯田屋に入社させてください」
僕の言葉に驚いた母はしばらく間を置いてから、「本当にいいの? よく考えてから決めなさい」と言いました。
こうして僕は飯田屋で働きはじめました。
■記憶に残る幕の内弁当はない
精肉店のための道具専門店として繁盛してきた飯田屋ですが、僕が入社したころには飲食店の道具ならなんでもある店になっていました。まちの精肉店が次々に廃業し、生き残ろうとする店は焼き肉店など飲食店に生業を替えていたからです。
それに伴い、飯田屋に求められる道具も変わります。コンビニよりひと回り小さい店には、社員食堂や学校給食で使われるメラミン食器やお盆、メニュー帳、白衣、コーヒーチケット、「営業中」や「準備中」と書かれた看板など、飲食店で使われるさまざまな道具が所狭しとばかりに並んでいました。
「こんなにたくさんの商品を取り扱っているんだから、うちのことをちゃんと知ってもらえさえすれば、たくさんのお客様に買っていただける!」
入社当初、僕はたくさんの品揃えを見て、呑気にそう思っていたのです。
しかし、店頭で聞こえてくるのは、耳を疑うような言葉ばかりでした。
「欲しいものがない」
「ここ何屋なの? もういいよ、隣の店に行こう」
「何を買ったらいいのかわかんないよ!」
お客様が口にする想像もしなかった言葉に、ただショックを受けました。
「これほどたくさんの商品が揃っているのに、なぜ?」
「何を買ったらいいかわからないって、どういうことだ?」
「入店してまだ10秒くらいじゃないか! なんでもう出ていくんだ?」
いったい何が起きているのか、理由すらわかりません。