「経済停滞の暗い谷間」ではなく「成熟の明るい高原」
日本社会に生きる私たちは、長年にわたる経済的成長の末に、生存のための物質的基本条件の獲得という、人類が長いこと望んでいた夢を実現し、いまや大多数の人が「総じて幸福だ」と言える社会…おそらくはかつての人々がユートピアとして夢想したものに近い社会を築きました。
一方で、昨今さまざまなところで叫ばれている「日本の再生」や「日本の再興」といった威勢のよい掛け声の裏側には、つねに「世界に向けて経済的存在感を示していたかつての国威を取り戻したい」という国家主義的なノスタルジーが横たわっています。
しかし、前述したような事実をしっかりと確認してしまった後には、そのような主張も「経済的覇権で国の序列は決まる」という古臭い価値観に縛られたアナクロニズムでしかないように思われてきます。
私たち日本人はよく「失われた●十年」という表現でバブル経済後の数十年を自虐的に語りますが、いったい何が「失われた」というのでしょうか。もし、その失われたものが「経済的一等国というプライド」なのだと言うならば、そんなものを回復させたところでなんになるというのでしょう。
1980年代の後半、バブル経済に浮かれ、モノの良し悪しもわからない成金根性丸出しに世界中で不動産や美術品やブランド品を買い漁って顰蹙を買っていた日本人が「エコノミックアニマル」と侮蔑的に揶揄されていることに当の日本人自身が忸怩たる思いをしていたことを思い出してください。
1990年代前半のバブル経済の崩壊以降、低調に推移する経済や株価へのフラストレーションもあって、私たちの社会はしばしば「停滞の暗い谷間」のように表現されてきましたが、このような表現はあまりにもネガティブな上にそもそも事実として誤っています。
私たちの社会が依然として看過できないさまざまな問題を抱えていることは確かですが、ここまで確認してきた「満足度」「幸福度」などのデータは、私たちの社会が着実に「明るく開けた幸福の高原」へと近づいているということを示しています。私たちの社会は「停滞の暗い谷間」へ向かっているのではなく、「成熟の明るい高原」へと向かっている、これが一つ目に確認したい「コロナ直前の文脈」です。