親子のいい関係は「スープが冷める距離」
わたしが今回の同居で学んだことは、人と人との距離のことだ。親子だからわかりあえるというのは幻想だということが、身をもってわかった。血は水よりも濃いというが、果たして濃いのはいいことなのか。そんなことを考えるようになった。逆に、血縁だからゆえにドロドロした関係になりやすいのではないのか。
妖怪がわたしの母ではなく、他人の大家さんだったら、きっとうまく暮らせたに違いないと、若いときに住んでいたニューヨークで、他人の家で快適に暮らしていたことを思いだした。
人は、本当は誰とでもうまくやれる。うまくやれないのは、お互いの相性が悪いのではなく、お互いの距離が近づきすぎるせいではないのか。
漫画『大家さんと僕』が大ヒットしている。1階が大家さん(80代の女性)2階にシングルの矢部さんが住む生活は、わたしたち母娘の暮らしぶりとよく似ているが、明らかに違う点は、矢部さんと大家さんは、他人と他人の関係である点だ。これが、大家さんが矢部さんの母親だったら、このベストセラーは生まれなかったはずだ。
ユーモアがあり心がほっとする矢部さんの作品は、他人同士の交流を描いたものだ。もし、わたしと母の同居生活を漫画にするとしたら、ほのぼのではなく、いじわる婆さんのような内容になりそうだ。
肉親であるからこそ、距離をもつことが必要だと経験から思う。世の中の殺人事件の約6割が家族間の殺人だという。ささいなことが、殺人にまで発展してしまったのは、距離が近すぎるゆえに、我慢ができなくなったからではないか。近すぎるから憎悪がわく。遠くなら会いたくなる。それが人間の心理だ。家族といつまでも仲良く暮らしたかったら、100キロ以上離れて暮らすことかしら。
距離的になかなか会えないとき、会いたいと思い、近いとうっとうしく思うのが、人間ではないだろうか。よく、親子のいい関係を「スープの冷めない距離」という表現をするが、わたしはここで言いたい。
親子に限らず、いつまでもいい関係でいたかったから「スープの冷める距離」ですよと。親の年齢や状況により、スープの冷める距離に住むことが無理な人も多い。その場合は、わたしが心がけているように、心の距離を置くことかしらね。
同居しているというと、一緒にご飯を食べていると思うらしいが、うちは「大家さんとわたし」の関係なので、煮物のおすそ分けはあっても、一緒に食べることはない。たぶん、だからうまく暮らしていけているのだと思う。