千栄子が潜伏先に選んだのは京都だった
京都での静かな日々
「私は終始一貫して、妻である私と、女優である私の血闘をくりかえしながら、春を迎え、秋を送り、雨の日も風の日も、二十年間、渋谷天外とともに生きてまいりました」
『水のように』から抜粋した一節。
天外の信頼と愛情を勝ち得るため、20年間にも及ぶ苦しい戦いに耐えてきた。敗れ去り、すべてが徒労に終わった時、これまでたまりにたまった疲労に押しつぶされそうになる。
彼女には休息が必要だった。人目に触れない場所で心身を休ませたかったのだろう。
千栄子が潜伏先に選んだのは京都だった。父の呪縛から解放してくれた街、女優という天職を与えてくれた街である。心の傷を癒し、再起を図るには最良の地だ。
はじめて京都に行った頃とは違って、大阪からの列車は私鉄などの選択肢が増えている。時間も短縮された。
私鉄の京阪電車が大阪・天満橋駅から京都・三条駅まで、特急列車を走らせるようになり、1時間かからずに行けるようになっている。
運賃は国鉄より安く、道頓堀など大阪中心部から京都をめざすには、国鉄や阪急よりはこちらを利用するのが一般的だ。
千栄子もこのルートを使ったはずだ。沿線には、かつて彼女が女給として働いたカフェーから近い師団前駅がある。太平洋戦争中に機密保護の目的で「藤森駅」と改称されていた。沿線に集まっていた陸軍施設もこの頃には、アメリカ軍が接収して使っていた。
兵舎の屋根には、白いペンキで書かれた英語の文字が目立つ。しかし、電車が駅前を通過した時には、極楽橋の対岸に懐かしい思い出の地を目にすることができる。
あの小さな商店街は、当時とあまり変わらぬ様子で残っていた。車窓の景色を眺めるうち、懐かしい記憶がよみがえる。
「また、振り出しに戻ってしもたな」
明日から何をやればいいのか……と、あてもなく大阪を飛び出してきたのは、あの頃と同じだ。20年以上が過ぎても何も変わっていない。そう思うと、つい口元に苦笑いを浮かべてしまう。
京阪の祇園四条駅で降りると南座がある。江戸時代から歌舞伎の興行が行われてきたこの日本最古の劇場は、明治末頃に松竹が買収して、直営劇場になっている。
千栄子が東亜キネマを辞めて京都を去った後の昭和4年(1929)には、鉄筋コンクリート4階建ての巨大劇場に建て替えられた。