いまは雌伏の時、傷が癒えればまたあの世界に
桃山風の大きな屋根がそびえる圧巻の眺め……。その威容に松竹の資本力を思い知らされる。
新喜劇を退団して、その庇護から離れてしまったことに、いまさらながら後悔と不安が過ぎる。しかし、もう後には引けない。南座を背にして鴨川を渡り、京都の中心街である四条河原町に向かって歩き出す。
鴨川を渡った先にある京都の街は、かつて千栄子が暮らしていた当時の姿をほぼ留めていた。空襲で破壊し尽くされた東京や大阪とは違って、古い家々が軒をつらねる戦前と変わらぬ風景がそこにある。
終戦後しばらくはこの界隈に、大阪や神戸から押し寄せてきた戦災孤児があふれていたという。京都に行けば屋根のある場所で暮らせる。焼け野原で寒風に凍えていた者たちは、そう考えたのだろう。
千栄子もまた被災民のようなもの。松竹寮を飛びだして住む家はなく、また、ホテルに泊まり続けていれば、手持ちの金はすぐに底をつく。天外との夫婦生活は、すべて千栄子の財布でまかなっていた。貯金などする余裕はない。
手頃な家賃の借家を急いで探す必要があった。しかし、空襲で甚大な被害をうけた日本の各都市は、復興が進んだこの頃でも借家やアパートが不足している。住処を探すのはどこも大変だった。戦災をうけていない京都なら、住宅事情も他都市よりはマシだろう。と、京都に足を向けたのは、そういった期待もあってのことだろう。
その勘は当たった。
京都公演の時に宿舎として何度か借りたことのある四条河原町の民家の2階が、いまも借手がなく空室になっていたのである。四条河原町は京都の中心にある繁華街。暮らしやすい場所だった。迷うことなく、ここに住むことを決めた。
千栄子が住む借家からは、新京極の通りが目と鼻の先の距離にある。世間との距離をおいて、ひとり静かに心の傷を癒す日々である。時間もたっぷりとある。懐かしい新京極界隈をそぞろ歩くことも多かっただろう。
通りや路地に軒をつらねていた芝居小屋や劇場は、映画館や飲食店に商売替えしていた。彼女が初舞台を踏んだ三友劇場も、いまは映画館になっている。
しかし、劇場があった路地裏の風景はあの頃のまま。未熟な新人女優が無我夢中で舞台に立っていた頃を思いだす。これで終わるつもりはない。いまは雌伏の時、傷が癒えればまたあの世界に戻りたい。そう願っている。
一方、松竹新喜劇のほうは千栄子が退団した直後、大混乱に陥っていた。
看板女優の突然の失踪により、これまで通りの演目で公演を続けるのは難しい。また、不倫相手の九重京子と同棲するようになった天外は、世間の厳しい目にさらされていた。
昭和22年(1947)には、女性の不倫を犯罪として扱った旧刑法の姦通罪が削除されたが、この時に「姦通罪は廃止せずに、妻のある男にも平等に適用するよう改正するべき」といった議論が巻き起こり、世のなかに男女同権意識が高まっていた。
天外の不倫は当時の進歩的な人々にとって恰好の標的となり、雑誌には、彼に批判的な記事があふれていた。これで多少の溜飲は下がる。そんな気持ちではなかっただろうか。