新劇団「松竹新喜劇」結成し、喜劇界の再編へ
昭和22年の秋になると「すいと・ほーむ」に藤山寛美が合流してきた。
大阪空襲直後の昭和20年(1945)3月、藤山を含む数名の家庭劇所属の役者たちが慰問団に参加して満州に渡っている。
すでに日本近海には敵潜水艦が集まり、関釜連絡船が沈められていた。
危険な仕事である。しかし、劇場が焼けて仕事と住処が失われてしまっては、生きてゆくために、やむをえぬ決断だった。
藤山はそのまま満州で終戦を迎えている。終戦後の一時期はソ連軍の捕虜収容施設で辛酸を嘗めた。その後も満州北部のハルビンで靴磨きやキャバレーのボーイをしながら帰国の船を待ち続け、やっと日本の土を踏んだ時には、終戦から2年が過ぎていたという。
天外の弟子たちのなかでも、千栄子はとくに藤山を可愛がり、一時は養子にしようと考えたこともあった。それだけに嬉しかったことだろう。
また、藤山は天外がその実力を認めた若手のホープでもあり、役者不足に悩む劇団にとってもありがたい新戦力だった。この他にも、戦地や田舎の疎開先から戻ってきた者たちが次々に合流してきたことで、劇団の人材はしだいに充実してくる。活動は軌道に乗りだした。
一方、天外と喧嘩別れした曾我廼家十吾のほうは病に倒れ、松竹家庭劇は公演を休止していた。
戦前から喜劇界の頂点に君臨してきた曾我廼家五郎も大病を患い、昭和23年(1948)11月に死去してしまう。
千栄子や天外は巡業先の四国で曾我廼家五郎の訃報を聞き、すぐに「すいと・ほーむ」を解散して大阪に戻った。そして、松竹の関係者らと今後のことについて話し合っている。その動きは素早い。
この1年ほど前に松竹の重役が東板持の疎開先を訪れて、曾我廼家五郎が、喉頭がんを患っていることを天外に知らせていた。
五郎は手術で声帯を失いながらも、舞台に復帰する役者根性を見せたが、もはや全盛期の芸ではない。いずれ客は離れるだろう。また、病気が再発する可能性も多分にあった。ひとつの時代が終わろうとしている。それは誰もが予感していた。
松竹家庭劇の休止にくわえて、ドル箱の曾我廼家五郎一座の先行きにも暗雲が立ち込めている。関西の喜劇界は危機的状況にあった。おそらく松竹と天外は、この頃から喜劇界の再編をめざし、水面下で動いていたと思われる。
天外を中心に、松竹は新しい劇団を立ち上げることにした。千栄子や藤山寛美など「すいと・ほーむ」のメンバーや曾我廼家五郎一座の役者たちにくわえて、この頃には天外と和解していた十吾と松竹家庭劇の団員もこれに合流する。
新しい劇団は「松竹新喜劇」と命名され、曾我廼家五郎の死去から1ヵ月が過ぎた12月に、道頓堀の中座で旗揚げ公演を行った。
この頃には道頓堀の各劇場も再建されて、街はかつてのにぎわいを取り戻しつつある。興行の世界にもやっと「戦後」が訪れた感があった。
しかし、結成当初の松竹新喜劇は迷走した。
複数の劇団が合併して発足したものだけに、様々な齟齬が生じる。たとえば曾我廼家五郎一座では戦後になっても女形を使い続けていたので、新喜劇では女形と女優が同じ舞台に立つという、珍妙なことになってしまった。
当然、芝居の完成度は低い。当初は目新しさで客が押し寄せていたが、すぐに飽きられて劇場の客席は半分も埋まらない日が続く。