もはや限界。千栄子は松竹新喜劇を退団
家のなかは居心地悪くてしょうがない。だから、なおさら外に出て浮気を繰り返すようになる。
天外はこれまで、劇団の女優と浮気したことがよくあった。
「主人がおらん時に、主人の座布団や鏡台を使う女がいたら、そらもう完全にできてます」
と、千栄子は離婚後にこんな話をしている。
楽屋に出入りする女優たちを観察していれば、誰と浮気しているのか、すぐに分かったというのだ。
これも見てみぬふりで我慢した。しかし、それが彼女の弟子となれば話は違ってくる。夫がその一線を越えてしまった時、我慢に我慢を重ねてきた堪忍袋の緒がついに切れた。
千栄子を激怒させた浮気相手は、松竹歌劇団に在籍していた九重京子という女優だった。
松竹歌劇団は宝塚少女歌劇団に対抗して、大正11年(1922)に「松竹楽劇部生徒養成所」として創設されたもので、九重は歌劇団で男役として舞台に立っていた。華やかな雰囲気を漂わせて、いかにも女優らしいオーラを発散している。千栄子とはまた異なる女性だった。
それが新喜劇に移籍することになり、千栄子に弟子入りしたのである。九重は松竹寮で暮らし、夫婦の部屋にも足繁く出入りしていた。
一緒に食事したり酒を飲んだり、時には酔っ払ってそのまま寝てしまうこともある。まるで家族のようなつきあいだった。千栄子も九重を妹のように思っていたようだ。
それもあって、警戒心が緩んでいたのだろうか。
天外が九重と浮気しているというのは、道頓堀界隈では早くから噂になっていたのだが、
「まさか、あるわけないやろ」
根も葉もない噂だろうと、千栄子はまったく信じていなかった。
九重を信じていた。また、夫もそこまで見境ないことはしないだろう、と。
しかし、その現場を目撃してしまえば、もはや信じるしかない。ある日、千栄子が松竹寮の自室に帰って来ると、そこには天外と九重がいて、もはや言い訳のしようがない状況が繰り広げられていたという。
現場を見せられた彼女の怒りは、すさまじかった。
「あいつ、ホンマにどつきよったで」
後になって天外は、親しい友人にこのような話をしている。口だけではなく手も出てしまったようである。
それ以来、千栄子は天外と一切口をきかなくなった。
ことを知った愛弟子の藤山寛美たちが、必死にとりなすが聞く耳をもたない。さらに悪いことには、九重は天外の子を身ごもっていた。子どもができなかったことを気に病んでいた彼女には、これもショックだった。
「二十年の、没我の献身を、それも妻と名のつく者をかんづめのあきかんかなんかのように、ぽいとけとばした人間もあれば」
『水のように』に、このような記述がある。激しい怒りと悔しさが滲みでたような文面だ。
結局、天外は長年連れ添った千栄子を捨て、自分の子を宿している九重を選んだ。
浮気が発覚した後も千栄子は、九重と同じ舞台に立っていたのだが、さすがの大女優も私情を抑えきれず、それが演技に出てしまう。
もはや限界。昭和26年(1951)4月、千栄子は松竹新喜劇を退団した。
松竹新喜劇に在籍する女優のなかでも、千栄子の知名度と技量は際立っていた。劇団にとっては大きな痛手である。看板女優の退団に松竹社内にも激震が走った。
しかし、遺留しようにも、どこにいるのか分からない。彼女は荷物をまとめて松竹寮から出て行ったが、その行方は誰も知らない。
忽然と消えてしまった。
青山 誠
作家
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