戦争の時代「仕事がやり辛くなってきた」
空襲に怯えながらも、芸の修業は欠かさない
天外が外に女をつくって帰ってこなければ嫉妬に燃えて、共産主義者を家に連れて帰ってきては怯える。夫にはいつも悩まされた。
おまけに彼は家に一切金を入れず、ふたりの生活費は千栄子が出していた。
また、天外を頼ってやって来る役者や弟子たちの飲食代も、すべて彼女の懐から。10人以上が居候していた時期もあったというから、かなりの出費だったはずである。
しかし、千栄子が松竹からもらう月給も、それがまかなえるほどには昇給していた。
家庭劇の客入りは好調を維持している。拠点を浪花座から、格上の劇場とされる中座に移し、昭和13年(1938)には築地の東京劇場で、年に2〜3回の定期公演を行うようになった。全国区の人気を得て、地位は盤石なものになっている。
いいことばかりではない。この頃になると演劇や映画に携わる者たちは、
「仕事がやり辛くなってきた」
そう感じていた。
すでに日本は戦争の時代に突入している。東京定期公演が始まる前年の7月には、中国・北京近郊の盧溝橋で日本軍と中国国民党軍の軍事衝突が起きていた。
これを契機に中国各地で戦闘が発生し、日中の全面戦争に発展。日本側は中国がすぐ屈服するとして楽観していたが、翌年になっても戦争は終わらない。
戦火は拡大の一途をたどっている。生産体制は軍需が最優先となり、国内では生活物資が不足するようになっていた。勇壮な軍歌と万歳三唱の声に見送られながら戦地へ向かう兵士の姿が、全国津々浦々で見られる。
昭和12年(1937)には、内務省警保局から「戦地銃後ニ於ケル活動ヲ茶化シテ国民ノ事変ニ対スル厳粛ナル感情ヲ傷クルガ如キコトナキ様」とのお達しがあり、警察指導のもとに興行内容を変更させられることが増えた。
喜劇はとくに当局から敵視され、脚本は重箱の隅をつつくような検閲を受ける。兵隊たちが戦地で生死を賭けて戦っているような時に、笑い転げるのは不謹慎ということだろうか。
政府や軍は国民の戦意を煽ろうとして躍起になる。「贅沢は敵だ」「遂げよ聖戦」などいったスローガンを書いた看板が、街のあちこちに掲げられていた。
太平洋戦争が始まった昭和16年(1941)に天外が書いた脚本のセリフに、
「腹が減っては戦ができぬ」
というのがあった。それが検閲に引っかかり、
「戦ができぬとは、なにごとだ!」
と、さんざん油をしぼられた。もはや難癖に近い。馬鹿馬鹿しくなってしまい、創作意欲は激減。以後は新作を書くこともなくなった。もっとも、脚本を書いてもそれを上演するのが難しい状況ではある。
太平洋戦争末期になると日本の各都市は激しい空襲にさらされ、もはや国民も芝居や映画を見ている場合ではなかった。
昭和20年(1945)3月には大阪にも大規模な空襲があり、道頓堀も焼け野原となってしまった。
家庭劇が拠点としていた中座や浪花座など、浪花五座はすべて焼け落ちてしまう。唯一残った松竹座の爆風で煤けた建物が、焼跡に寂しい姿をさらしていた。それが、隆盛を極めた興行街の墓標のようにも見える。
芝居をやりたくても劇場がない。それどころか、ここにいれば命が危ない。千栄子と夫の天外は大阪を脱出して、故郷の東板持に疎開した。