エベレスト登頂に携帯した漆のお椀
伝統にも「跳躍」の瞬間がある
登山家の三浦雄一郎が、三度目となるエベレスト登頂を80歳の世界最高齢で成功させたときに携帯したのが、“ちょもらんま”と名付けられた漆のお椀でした。
人間国宝の室瀬和美が、デザイン、制作した漆のお椀です。三浦が「登山中には温かいご飯も汁も諦めている、8000メートルにもなる過酷な場面では仕方のないこと」と語ったことが、室瀬が、高山でも使うことができる漆椀をつくるきっかけとなりました。およそ木に漆などを塗ったものがアルミ製に勝てるわけはないと考えがちですが、実際に三浦が携帯したところ、過酷な環境においてなんの遜色もないどころか、保温性に優れるため温かい食事もでき、非常に使いやすかったというのです。
実際にそのお椀を見せてもらいました。細かなスリ傷はついていますが、まったく問題なく今でも使用できる状態なのです。なぜそれほど木と漆が強いのか。実は漆を使っている人にとっては、これは当たり前のことだと言います。
縄文時代から使用されている漆は、非常に強い保護膜をつくる接着剤で、ここ100年ぐらいで出来上がった科学塗料よりもはるかに安定した素材です。それを私たちが忘れていただけなのです。三浦の登山がきっかけで改めて漆の強度を一般の人に知らしめることになりました。
ある意味では先祖返りのようなイノベーションも自分の使っている材料をよく知っているからこそできることで、技法材料をベースにイノベーションを思考する工芸的なアプローチには、このような材料の研究から考えるということが、よいのかもしれません。
漆の現代アートへの転用も登山用のお椀への改良も、どちらも革新的なアイデアが必要なのは確かで、極端なことをいえば、革新の方向性はどちらを向いていても構わないのです。それが前のものと断絶していると感じるくらい、アイデアの跳躍が必要なのです。
普段はダメだと思っていたことが、案外、逆に可能であったりするのはよくあることで、先入観が私たちの眼を曇らせるのです。漆椀を8000メートルの高地まで持っていったことなど今までなかったわけで、現代にはじめて起こった現象です。このように新しい条件により、新たな可能性が開くのです。