キクノの背中に吹く追い風はさらに強くなっていた
しかし、キクノはすでに何本かの映画に出演したスターであり、映画界ではその名を知る者も多かった。名も無く無学な貧乏人の娘だった頃とは違う。
彼女が東亜キネマを辞めたことが知れ渡るとすぐに、大人気のイケメン俳優・市川百々之助から声がかかる。自分の相手役となる若い女優を探していたところ、キクノが東亜キネマを辞めたという話を聞きつけたのだ。
不景気な時代ではあるが、映画館はにぎわっている。昭和初期の映画館入場料は40銭。木戸銭60銭はする寄席や芝居と比べても安く、大正期の都市部ではすでに映画館の数が寄席を上回っていた。
地方での巡回興行もさかんになり、田舎の農村や漁村でも、映画ファンが増えつつある。地方の駅前にも常設映画館ができるようになり、大正10年(1921)に全国で470館だった映画館の数は、昭和元年(1926)になると1057館に倍増していた。
不況の時代に数少ない成長産業である。投資もさかんにおこなわれ、新規に参入する企業は増え続けた。
関東大震災で東京の撮影所が一時的に麻痺していることもあり、その間にシェアを拡大しようとする関西映画界では、とくに新規参入や規模拡大の動きが顕著だった。
そんな状況なだけに、あいかわらず女優は不足している。キクノの背中に吹く追い風は、さらに強くなっていたようだ。
女形から女優に切り替わった当初、時代劇映画の見どころは、迫力のチャンバラ活劇にあり、女優はただの添え物に過ぎなかった。しかし、観客はしだいに女優の美しさや演技にも注目するようになる。
映画館には女性客も増え、女優の着物や髪型、手に持つ小物にも注目が集まる。映画女優になろうとして家出した少女が、京都駅で補導されたというニュースが話題にもなった。
キクノがこの業界に入ってから2年も過ぎぬ間に、世間の女優に対するイメージやその地位は変化しつつある。
青山 誠
作家
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